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大阪府立中央図書館 国際児童文学館 資料小展示「子どもたちの万博(EXPO’70)」

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更新日:2023年9月6日


*この展示は終了しました。ご来場ありがとうございました。

今から53年前の1970年に大阪・千里丘陵で開かれ、多くの人が熱狂した日本万国博覧会。
とりわけ子どもたちにとっては「未来」や「世界」に触れられるドキドキ・ワクワクの一大イベントでした。
国際児童文学館に所蔵する当時の子どもの本や雑誌を通して、あの熱かった万博を振り返ります。

大阪万博に関する思い出エピソードを募集しています!  *募集は終了しました。

「ニャロメの万博びっくり案内1」   「たのしいばんこくはく」

『ニャロメの万博びっくり案内 第1集   『たのしいばんこくはく』 西谷喬/文
万国博がやってきた!!』          大石巌/[ほか]イラスト
赤塚不二夫とフジオプロ/著         ひかりのくに昭和出版 [1970年] 実業之日本社 1970年4月

会期

2023年7月4日(火曜日)から9月3日(日曜日)まで

場所

国際児童文学館内 小展示コーナー
※入館は無料です

展示資料一覧

「子どもたちの万博(EXPO’70) 展示資料一覧」のページをご覧ください。

開館時間

午前9時から午後5時まで

休館日

7月17日(月曜日)を除く月曜日、7月18日(火曜日)

ご案内

期間中、会場でアンケートにお答えいただいた方に国際児童文学館クリアファイルをプレゼントします。

みんなの万博 ~今回、皆様から寄せられた大阪万博の思い出を紹介します~

  • 小学校4年生のときで、計7回行きました。土日は大変混雑するので、平日に学校をずる休みして友達と行ったことがありますが、 そのとき友達のお父さんがわざと車を学校の前を通ったので、先生にバレないかとてもドキドキしたのがいちばんの思い出です。IBM館では将来の運勢だったか占いをプリントしたものがもらえましたが、当時はプリンターから出る紙1枚がとても貴重なものに感じました。今でもパビリオンでもらったパンフレットなどはすべて箱にしまっています。
  • 万博開催時は小学6年生でした。太陽の塔はじめチューブ状の会場を網羅した動く歩道、斬新なパビリオンの建物は正に別世界でした。その魅力に引き込まれて全パビリオンを見たくて家族にお願いして11回行き制覇しました。宇宙船の様な日立館、ブタの様な形のガスパビリオン、空中に浮かぶ目玉のリコー 館、円盤様なアメリカ館、赤い大きな建物ソビエト館等。また太陽の塔や大屋根青年塔や母の塔、世界最大のお祭りロボット デメ君とデク君、何度も何度も絵を書いて楽しみました。この印象がたまらなくて万博が終わった後も、その魅力を求めて以降国内外で開催の博覧会を追いかけて53年。家でも毎日万博を楽しみたくてグッズ収集も行う様になりました。今振り返っても1970年万博が最高で、あの時代にあれだけの建物を建てれた事に感動している次第です。太陽の塔の4つの顔については当時自分なりに解釈しました。人の生き方として、過去を背に、前に向かって歯を喰い縛って頑張れば、その先には輝く未来がある。足元にはご先祖様の血が流れている。 と思うとますます惹きつけられてご本尊様の様に感じる様になりました。太陽の塔は今も残っていて、万博公園に行く都度、太陽の塔に「残ってくれて有り難う、残してくれて有り難う、復活させてくれて感謝」とつぶやいています。万博は私の人生に欠かせない存在となった由縁です。
  • 当時、中学三年生だった私の両親の実家から、土曜日、日曜日は毎週のように従妹らが家族連れで、万博見物で我が家に泊りがけで来ておりました。両親は家業で忙しくしておりましたので、もっぱら私が案内役です。案内といっても会場までの電車の乗り換えを誘導するだけですので、現地ではほとんど自由時間です。待ち時間の長いパビリオンは把握しておいたうえで、開場と同時に並びに行き、有名なところはもちろん小さなパビリオンもたぶんほとんど回ったような気がします。夏休み明けにはそれを自慢のネタにしようと思っていたのに、同級生の女の子が、英語の通訳ボランティアをしていたというから、ガックリ。そんな思い出がいっぱいのEXPO’70、あれから55年後のEXPO2025、遠くから孫たちがやってくるのを楽しみにしています。
  • 「こんにちは こんにちは せかいの国から せんきゅうひゃくななじゅうねんの こんにちは」のメロディが思い出されます。当時中2だった私は、社会見学で、空いていたチェコスロバキア館のみ行きました。どこも長蛇の列で、三菱未来館へ行きたかったなと後で夢にまで出てきました。50年後の未来に生きている私たち。当時の想像したものがいろいろ現実になってビックリです。またの20年後がみられるかなと今回の万博にも期待しています。(展示してある未来の海底牧場の絵は覚えています)(’88岐阜の未来博の跡地にも太陽の塔の小型版があります)
  • 1970年の大阪万博の時は13歳になる年で、中学1年になったばかりでした。中学最初の行事「春の遠足」が万博でした。ところが前日に発熱したため当日は不参加、本当に楽しみにしていたので、家で涙を流して悔しがりました。 家族に、また行けるからとなだめられました。その後8回行くことができました。当時話題に登っていたアメリカ館、ソ連館を始め主要なパビリオンにはほとんど行きました。一番印象に残ったのはニュージーランド館で食したミルクセーキが美味しかったことです。
  • 大阪万博の時、私は、小学6年生でした。都合3回、行かせていただきました。想い出に残っているのは、アメリカ館の月の石で、確か2時間並びました。ただ、意地汚い私が、印象に残っているのは、三洋電気館のフラッペです。貧乏だった私にとっては『世の中にこんな美味しい物があるんや』と、思いました。後は、うろ覚えのですが、確か、あの日は、帰宅出来なかった方も、おられたみたいですね。後、車掌さんの『こーの、電車は、新大阪から梅田淀屋橋・心斎橋・難波・天王寺から我孫子行きです』と流暢に、案内されることでした。あの時、私は、『よし、大人になったら、車掌さんになろう』と 思いました。
  • 万博開催時は小学校6年生でした。大阪に住んでいたので、遠方から親戚がきて一緒に行ったり、学校の遠足でも行きました。万博が終わった直後に父の病気が発覚し、翌年の1月に亡くなりました。父は化学が好きで未来の進化を予測できるお茶の水博士の様な人でした。現在の進化を見て欲しかったし、次の大阪万博で更に進化した世界を見て欲しかったと思います。
  • 外国人を見たらハローって声かけてサイン帳にサインしてもらっていた!当時小学校6年生!外国人が珍しい時代でした。
  • 万博の年は10歳。大阪市内の小学生だったので、学校からも遠足で連れて行ってもらいました。当時は、切手やコインを集めるのが趣味だったせいか、各パビリオンの来館記念スタンプを集めるのに夢中でした。東京から万博観光に来阪した親戚のおじさんが、お土産に会場の売店で全館スタンプ帖を買ってきてくれて、嬉しかったけど、何故か嬉しくなかったのを覚えています。やっぱり収集の醍醐味は、自分で苦労してでも揃えることだったのでしょう。(^^) 今回も開幕をワクワク心待ちにしている私の目標は、 (1)全館制覇(2)スタンプの自力収集(3)今回は展示もじっくり拝観すること(^^;; 気持ちはもう、スタンプ帖を抱えて、会場を掛け周る、短パンとランニングシャツの万博小僧です。
  • 万博のときは10歳。遠方の親戚が交代で泊まりに来て、従兄弟たちと一緒に楽しみました。「月の石」を見た記憶はあるものの、なぜか万博の記憶があやふや。でも還暦を過ぎたころ、万博が未だ大好きな男性達に出会い、少年のように万博愛を語る彼らのおかげで、私の中の万博の思い出も彩られていきました。2025 大阪万博も未来に繋がって、人と人との絆にもなると思います!楽しみです!
  • 1960年生まれの当時10歳でした。裕福では無い東大阪の長屋住まいで贅沢な事は記憶にありませんが親戚が来たりとか家族でとか数回行った記憶があります。4歳上の兄は学校の友人達男女数人で自転車で行き、アメリカ館の月の石を見たなど聞きながら友達同士行けるのが羨ましかったのを覚えています。 30年前に亡くなった父がお調子者発揮して「太陽の広場」での入場者参加型イベント像と綱引き!に参加して沢山の方々と本気出して綱引きをして結果、肩背中等ケガしていたのを思い出します。今の時代から見ると貧しい人は多く当時はみんな前を見て将来を夢見ていたように思います。懐かしいですね。
  • 当時私は大阪市に住んでいて、小学校5年生で遠足でも行ったし、親戚が方々から大阪に訪ねてきて、その都度ついて行って、おそらく大半のパビリオンを見たと思う。今も当時のガイドブックは宝物である。中でも各パビリオンの記念スタンプを集めるのが流行っていて、いろいろなパビリオンのスタンプがたまっていくのがとても楽しかった。今も大事にその時のスタンプ帳を持っている。もし公開するチャンスがあれば、ぜひ当時の思い出として寄贈したいと思っています。
  • 1961.11生まれで8才。今のようにインターネットで情報が簡単に得られない時代。何もかもが感動でした。あまり豊かではなかったので、おにぎりたくさんつくって、水筒下げて、ステーキがいっぱい焼かれていたり、カットパイナップルがいっぱい並んでいて、「食べられるようになろう!」と思いました。
  • 当時8才でしたが、大阪万博には家が貧乏だったにもかかわらず、良く行きました。最後に行ったのが9月5日の最高入場者の日でした。初めて父親も行きまして、家族総出で張り切って行きまししたが、激混みでようやく入れたのが虹の塔のみで、父親はキレて早帰りする事となりました。後から考えれば、早帰りしましたので家まで帰れましたが、夕方まで現地に居れば帰れなかったかもしれません。

  • 万博は8歳でした。父方の本家三重県からも親戚が来て、一緒に行きました。一番残っているのが、アメリカ館に入るのに並んでいて鼻血が出た事。今ほど暑くなかったけど。あんなに並んだのは産まれて初めてだったと思います。すごい人に圧倒されました。近くに住んでいたので親戚が次々来て、何度も行けて お誕生日が7月末だったので、思いがけぬプレゼントをたくさんもらえて嬉しかった思い出です。

  • 万博のときは5歳、幼稚園の年長でした。 家から会場まで徒歩で行けるところに住んでいたので、何回も連れて行ってもらいましたが、午後5時以降、入場料が割引になってからしか連れて行ってもらえなかったので、人気のパビリオンは一日一館くらいしか見れませんでした。唯一昼間に行ったのは、お祭り広場のイベントに、幼稚園の鼓笛隊で出演したときです。その時の参加記念メダル、今でも持っています。

  • 高校時代に遠足で、運よく万国博覧会に行きました。太陽の塔は一番衝撃的でした。今だに夢に出てきます。どこもパビリオンは行列で、混雑してる感じでしたが、たまたまイタリア館がすいていた時に入って、イスに腰かけてくつろいでいました。

  • 私は小学校3年生で、家族で4月下旬に行った時、太陽の塔の最上部で立てこもり事件がありました。

  • 小2で3回行った。その内1回はアメリカ館の月の石を観るだけのために2時間待ったことが一番の思い出です。懐かしい本があり、楽しく拝見しました。

  • 1970年の大阪万博の時、私は7歳でした。一番記憶に残っているのは、ドーム型のスクリーンに映し出される3Dの映像を初めて見たこと!! 2025年の万博では、来てくださった方の心に残るような紙芝居を演じたいなぁ…

  • 当時小学6年生でした。ぼくらマガジンや少年サンデーマガジンの万博特集を見て、ワクワクしました。ガイドブックではわからない情報がいっぱいあって、とても良かったです。当時のパビリオンの絵を描いて楽しみました。

  • 小学5年生の時に開幕直後に行きました。初めて入ったオンタリオ州館で、綺麗で優しい外国人女性スタッフが接してくれてオンタリオ州のことが強く印象に残りました。また、そびえ立つソビエト連邦館では、立派なバッジをもらったことを覚えています。サンヨー館の人間洗濯機にはワクワクしました。子供ながらに、『中に入る人が裸で出てきたらどうしよう』と思っていましたが、無地の水着を着た女性が出てきてホッとするやら、少々期待はずれのような印象を持ちました。洗濯機と言うからには、高速でガガガぁっと水が回転するものと思っていましたか、その時は静かに水が回るくらいで、コレでは垢も取れないんじゃないかなと思いましたが、何より、人間を洗おうという発想と、ソレを先ずは形にされたことに大いに感心した次第です。

  • 1970年私は25歳、独身でした。20回以上行ってます。兄が前売り券を2割引きで大量に買ったのに一度も行かなかった面白い記憶です。私や母、友人とほとんど私が消化しました。同級生がアルバイトしているパビリオンに優先で入れてもらった思い出の万博。沢山の資料、パンフレットは大事に置いてあります。息子や孫に見せたいと思ってます。地下鉄が万博会場まで開通した思い出もあります。

  • 万博当時に私はゼネコンに勤めて3年目に転勤で大阪に来ました。会場近くの作業所におりましたが、会期途中から夜になると呼び出しが掛かるようになりました。万博で工事した通路の表面仕上シートが通行人が異常に多く擦り減りが早くて破れたり剥がれたりして通行に支障がでて大変でした。その為、夜になると剥がして新しく貼り替え作業の応援によく駆り出されたことが思い出です。床材メーカーさんもびっくりしてました。良い勉強になりました。当時夜の静かな万博会場が懐かしいです。

  • 万博は、私が大阪のある中小企業に就職したよく年でした。工場が忙しく、地方から多くの季節工に来てもらって働いてもらっていました。休みの日には、万博へ案内したのですが、場内では自由行動としたのに、皆さん田舎から出てこられた人ばかりで全員が私の後について来られて、皆さんがはぐれないかが気になり、私が見たいところも見れずまいりました。

  • 九州に住んでた私は、友人2人と大阪万博を見に行きました。パビリオンはどこもいっぱいで 私と友人はカナダ館に入りました。夏の暑い日に、カナダ館の中は涼しくて、ゆっくり見れました。出口付近でカナダの国旗の ピンバッジをもらいました。赤に白の縁取りの小さな可愛いピンバッジ。無料でもらえて嬉しかったです。また消費税というのがない時代ですが、コーラを飲む時に132円(?)払って、変な値段と思ったら、税金が、含まれてるということでした。とても不思議なことがありました。たくさん人がいて 待ち合わせた人でも、会うのが困難なのに、全く予想もしてない友人に会えました。中学校の時の友人で東京に転校して、連絡のとれない友人でした。同じ日同じ時間に、九州から出てきた人間と東京から出てきた人間が、あの広い会場で ばったり 会ったのです。とても不思議でした。きゃーと言って手を握って飛び上がって、おしゃべりして、写真を撮って別れました。一緒に行った友人も驚いてました。大阪万博 懐かしい、いい思い出です。今、私は大阪に住んでいます。大阪万博 楽しみです。

  • 大学の4回生でした。たまたま高校の時の友人が、販売店の店長になり、バイトに誘ってくれました。 始まった当初は、雪がまったりし、寒く観客も少なかったのが、暖かくなるにつけ、ドンドン増えてきました。朝一のバイトの時、ゲートに並ぶ観客を尻目に、ゲートを パスしガラガラのモノレールで店に向かうのは 嬉しい事でした。前回がカナダの開催だったんで、店の横がオンタリオ州館で、スタッフが毎日、パンやらを購入しに訪れ、顔見知りになったのも、いい思い出です。 あと大学の友達がほかの館でバイトしていて、並ばずに入れてもらったりもしました。何はともあれ、6ヶ月間、青春の良い思い出になりました。

  • 当時大学生でしたがアルバイトで万博に来られた観光バスのお客様の記念写真撮影や出来上がった写真を配ったりしていました。

  • 万博の時、私は19才でした。「千人の花嫁」というイベントに美容関係の仕事をしていた父が推薦、応募しました。審査に合格してプロのモデルからウォーキングのやメイクを指導してもらい4種類の不織布のウエディングドレス「ロングドレス」や「パンタロン」の中から「ミニ丈のワンピース」に選ばれました。当日、プロのカメラマンから選んでもらい写真を撮ってもらいました。イベント後にモデル事務所からスカウトされたのですが、父が私に話さず断りましたが良い思い出として今でも鮮やかに残っています。

  • 1970年の万国博覧会の松下館にて、お茶のお手前を披露しました。今となってはかけがえのない素敵な思い出、素晴らしい経験でした。当時、習っていた茶道『庸軒流』の先生から松下館でお手前をしましょう、と声をかけられて、母と共に大喜びでお稽古に励みました。夏とはいえお手前をするには、夏の絽の振袖が必要で、両親には大きな負担をかけた事と思います。けれど、その振袖は宝物で、私こそ万博の時一度着ただけですが、娘が着る機会があり来てくれましたし、今年9月に孫娘が従姉妹の結婚式に着てくれることになりました。私が生きているうちに、又この大阪の地で万国博覧会が開催されるとは、とてもとても感慨深いです。

  • 当時、高校卒業してOLになった年でした。自由に世の中を歩いている感がありました。母の故郷から従兄弟とおばあちゃんが万博見物に大阪へ。案内役をかってでました。あんなに大勢の外国人を見たのは初めて!でした。

  • エキスポタワー(のちに取り壊されています)が太陽の塔とは別にあって、近くに野外音楽堂がありました。高校の三年の時でそこで自分が入っていたクラシックギターのクラブの先輩や後輩達と演奏会を開催しました。近年その時に撮影した8ミリ映像を探していますがまだ見つかっていません。クラブのみんなとは年に一回集まって思い出話で盛り上がっています。

  • 万博の時は、高校1年生でした。友達と行きブルガリアヨーグルトを初めて食べ、粉砂糖をかけてもすっぱさにおどろきました。又、母の従兄弟が広島からやって来て、そのお供をしたり、何回も行きました。

  • 私が中学生の頃で、友人や家族と何度か万博に行ったと思います。どこも並ぶのが大変でした。外国の人と触れる初めての機会だったと思います。

  • 15歳 中学3年生でした。ニュージーランドの催しで、初めてソフトクリームを食べてこの世にこんなおいしいものがあるのか、と感動しました。以後あのおいしさを超える食べ物に巡り会えません。

  • 私は当時中3になる春休みでした。 何人かのグループで行くことになり、そこに憧れていた先輩がいて、ただただ胸がドキドキで、何を見たのか?どこに行ったのかわからないまま帰ったのを思い出します。後に家族や、遠足で何度か行きましたが、人気のあるパビリオンはすごい並んでて、空いているところばかり回っていたような気がします。コンパニオンのお姉さまはとても素敵でした。

  • アメリカ、ソ連など大きな国のパビリオンは人が多く入れなかったけど、小さな国のパビリオンも多くあり世界の国を知る機会となった中学3年生時代でした。

  • 当時中学3年生で学校の遠足で行きました。午前中は友人とアメリカ館に並んで万博の目玉で有る月の石を見ました。昼休みは太陽の塔の前で集合して昼食後午後は団体で行動して居たのですが引率の先生が迷子になり私達のクラス全員で探し午後の行動時間が無くなり、結局午後は何も出来なく残念な1日となりました。今ではスマホも普及していてこんな事があってもGPSの位置情報サービスで何とかなりますが当時は未来の電話として展示は有りましたが今では考えられ無い時代でした。
  • 当時中1で遠足で行きました。妹は小4で、開会式にお祭り広場で学校から参加し他の小学校と演技したそうです。妹は閉会間近に父親と朝から万博に来場し、21時になっても帰ってこず、携帯電話もなく母と私は心配しましたが、夜遅く帰宅し、改札口が満員で御堂筋線なかなか乗れなかったそうです その御堂筋線は、梅田から延伸し、私の中学校から見ることができ、銀色の車両が試走した時は皆で手を振りました。

  • 当時は中1でした。見る物が全て新鮮で~外国人を大勢見ることも新鮮でした。スタンプ帳を片手にパビリオンを駆け巡りました。

  • 万博会場でドイツ館に入ってソーセージを食べた記憶があります。もちろんアメリカ館の月の石も見てきました。 12歳でした。

  • 父親と一緒に長い列に並んで「月の石」を見た。

  • 月の石 見てない。残念!

  • 大阪万博は小学校6年生の時でしたが、当時外国人の人が珍しく、小学校の遠足で行った時には、皆一般の外国の人にサインを求めてました。今から考えるとおかしいです。サインを頼まれた人も驚いたと思います。その年の夏休みに、若狭に行った時にカナダのオンタリオ州のパビリオンで働いているという人と会い、バッジをもらいました。しかし、どのように会話が成立したのか謎のままです。

  • 当時は小学6年生でした。地下鉄の駅にはたくさんの人、館内もどのパビリオンも並んでいたので、空いてそうなパビリオンに入った記憶があります。鉄のパビリオンに入ったと思います。

  • 万博の時は、10才。 最寄りの駅から万博会場までバス路線が運行されてて行きは、家族4人で乗りました。ワクワク! 夏休みで混雑してましたが、母と私はアメリカ館に並んで月の石を見ました。今となっては、あんまり記憶がありません。笑 父と妹は並ぶの嫌と小さい混雑のないいろんな国の館を巡ってました。人間洗濯機も見ました。帰りは、千里中央駅から初めて御堂筋線に乗りました。もう、それはそれは大混雑。やっとこさ家にたどり着いた。ニュースでは、過去最高の人出で帰れない人が万博で野宿が映し出された。母はその時初めて、M社のハンバーガーを食べた。と今でも時々言ってます。

  • 1970年万博開催当時10歳でした。親や自治会の見学会などで計4回行きましたが、今でもその感動は忘れられません。2025万博も子供たちに未来への夢と希望を与えることができる内容になることを期待しています。

  • 各館の大きさは、建造物がいろいろおもしろかったのを覚えている。迷子バッジを集めたのも懐かしい思い出。

  • 家族と3回と小学校の遠足でも行き、計4回行きました。アメリカ館やソ連館に何時間も並んで入ったこと。アフリカの国々や国内の企業も色々あり、全部を見るにはまだまだでした。象が国道を行列してたのも偶然見かけました。パビリオンは遠くにでしたが家からも見ることができました。会期が終わってそれらの大半が取り壊されたのはとても残念でしたが太陽の塔や日本庭園が残され、万博の楽しかったことを思い出しています。

  • 小学生の時に行ったと思いますが、最初で最後の家族旅行です。太陽の塔を見れて、とてもうれしかった。

  • 家族が万博にいって、お土産に万博の大きなハンカチをもらいました。

  • そういえば、実家に万博のフロシキが今でもあります。

  • 吹田に住んでいたので、何度か訪れました。未来の感じがした。

  • 1970年万博、行ったのですが、どこへ入ったのか記憶がありません。数年前、太陽の塔の中を見ることができ、すごい!!と感動しました。あの時代にこんなすごいの、つくってたんだ!!
  • 1970年万博はおさないころに行ったようなのですがおぼえていません。2025年の万博はこれからどんな風になっていくのかなと楽しみに見守っています。いろんな国のおいしい料理や、おしゃれ文化などにふれることができたらいいなと思っています。
  • 万博の時は、小学校1年生で、和歌山市内から行きました。片道2時間かけてですが、何度も両親と行きました。私というより、両親、特に父親が行きたがっていたのだと思います。私は、毎回、迷子になりました。それだけ、来場者も多い上、珍しい建物に気を取られた両親は、自分の子供のことを忘れてパビリオンに見入ってたのだと思います。迷子センターも最初は緊張しましたが、何度も行っていたので、慣れたものでした。パビリオンで印象に残ったのは、太陽の塔の中の太古からの進歩を表した造り物、みどり館のパノラマ映像、三菱未来館の映像と音響、そして、アメリカ館の月の石、小っさ!といったところでしょうか。食べるものでは、モスクワレストランが、風変わりでハマったのを憶えています。万博の後、難波に同じ様なレストランが出来て、そこも行きました。展示物で、現実になった、携帯電話や、リニアモーターカーも見ましたが、まあ、現実に出来上がってきているのには、万博はウソつかんなと思いました。当時、何も知らない子供でしたので、見るもの全て、驚愕、感動ものでした。今、還暦を迎え、少し、感受性も衰えていますが、今一度、感動を味あわせて頂きたく、期待してます。蛇足ながら、私をよく見失った、父親は、数年前に他界しましたが、もし、生きていたら、何としてでも行く!と言ってたと思います(迷子になってるかも)。
  • 万博は幼稚園卒園を控えた3月から、小学校1年生にかけてありました。 家から最寄りの千里山駅で、生まれて初めて外国人を見たのもこの開会の頃です。息が止まるほど驚きました。万博には数えきれないほど行きました。特に夏休みには、早めに夕ご飯を済ませ、2日に一度の割合で、いそいそと出かけました。夕方は入場料が、確か半額になったのです。お祭り広場で大勢の子どもがラジオ体操をするイベントにも、当時所属していた体操クラブから参加しました。最前列の左端で、豆粒ほどの大きさでしたが、 翌朝の新聞に大きく写真が取り上げられたのが忘れられない思い出です。

  • 万博の時は幼稚園の年長でした。幼稚園で「咲いた開いた輪になった亅とお遊戯を踊りました。会場で大きな外国人の人形があり、父が私を持ち上げてその人形の顔に近づけてくれました。本物みたいですごかったのですが、その後同じような女性の人形があり、「ほら大きいよ。」と近づけてくれたら、本物の外国人女性でにっこり笑いかけて来られて父がびっくりしてあわてたことがありました。万博マークの生地で作ってもらった浴衣を着た写真も残っています。

  • 大阪万博の時は5歳でした。どのパビリオンに入ったかまでは覚えておりませんが、ずっと家族で行ったと記憶しておりました。ただ、この展示をきっかけにアルバムを見て思い出そうとルンルン気分でアルバムを見てみると、悲しいことに1枚も万博の写真はありませんでした。もしかして万博には行っていなかったのかなと寂しい気持ちになりましたが、両親に確認すると万博には行ったようで、ホッとしました。先日東京の美術館で太陽の塔のフィギュアが販売されていて、どこかで見たような気がして、すごく懐かしくテンションがあがりました。今度の大阪万博は記憶に残るようにぜひ行ってみたいです。
  • 万博のときは3歳でした。太陽の塔の前でベビーカーに乗っている写真が記憶にあるだけです。母のミニスカートが印象に残っています。
  • ​3歳の時に祖母といきました。地元から飛行機で大阪へ。太陽の塔だけはハッキリと覚えています。大阪滞在中に東京の曽祖母がなくなり、そのまま新幹線で東京へ移動。初飛行機、初万博、初新幹線に初葬儀参列。非日常的な出来事が続いたためか、ちょっとずつ記憶に残っています。
  • まだ3歳でした。当時より市内在住で父親と行きました。 覚えているのは、お出掛け用のワンピースを着て出掛けて、太陽の塔と人混みで父親がシッカリ手を繋いでくれていたコト。 あとは、初めてピエロを見て、そのピエロが人が食べていたスパゲティを一本取って片手を高く上げて口を上にしてピロピロっと食べておどけていたのを覚えています。 他は残念ながら記憶がありません。 でも、終わってからも何度も太陽の塔を見に連れて行ってくれました。たぶん父親は色々感動したんだと思います(笑)。
  • 私の万博の思い出は「象」動物の象です。まだ幼稚園児の私にある日突然母は「早く、行くよ!象を見に」と母の慌てた様子と「早く出かけるぞう!」という迫力に「象?!」の意味も聞けず。出発。行き着いた先は動物園じゃなく道路。到着後道で長い時間待ってると象!象さん達が目の前を歩いてきた。途中ウンチを落としたりしながら。象さん達は大人しく堂々と彼らのペースで歩いて通り過ぎていった。曖昧な記憶だけど大阪万博と聞いて思い出すのはこの象さん達。神戸港から会場まで歩いて移動したらしいですね。この裏話を今でも知りたいです。

  • まだ生まれていませんでした。でも象の話にはびっくり。江戸時代など昔の時代に象が来たときみたいです。

  • 1970年大阪万博の時は2歳でした。「家族全員で島根の実家から自家用車で大阪まで行った」と聞いていたので、70年万博に行った記憶はありませんが、行ったという事実は間違いないと思っていました。今回の思い出エピソードを記入しようと思い、当時のことを母親に聞いたところ、「あんたは尼崎の親戚に預けたけん、万博には行っとらんけん。なんで今頃そげな(そんな)こと聞くかね?人がすごて(すごくて)、大変だっがね。」(出雲弁です) 当時5歳だった兄に聞いても、「万博に行った記憶はあるけど、どのパビリオン行ったとか全然覚えてない。っていうかお前が行ってなかったって初めて聞いたわ。」 と、53年ぶりに万博の残念な事実が明らかになりました。
  • 私が母のおなかにいたとき、両親そろって出かけたそうです。月の石やミイラをみた話をきいた気がします。(^^)
  • 1969年生まれの私はまだ赤ん坊であの会場に行ったかどうか定かではありません。ちょうど会期中に妹が生まれたこともあり、両親の記憶もはっきりしていませんし、会場で撮影した写真もありません。もしかしたら入場者数6400万人に私は含まれていないかもしれません。 しかし、仕事の関係で万博の資料に興味関心も持つことができました。そんな私の一推しパビリオンはガスパビリオンです。外観がかわいい。
  • 父から聞いた話です。父が小さい頃、母親に連れられて二人だけで万博へ行ったそうです。 地方から大阪への日帰り旅行で、まだ暗いうちに長距離バスに乗り、ほんの数時間万博を観ただけで、また何時間もバスに乗って家に帰ったそうです。万博の内容よりも、バス移動の方が印象に残っているようでした。 私の知っている祖母は外出や旅行をあまり好まないタイプだと思っていたのですが。遠くても行きたいと思うほど、魅力的なものだったのでしょうね。
  • 太陽の塔への立てこもりに、当時警官だった祖父も対応に駆り出されたと聞いております。エキスポランドへ行く際など、そんな話を聞きながら子どもの私は太陽の塔を仰ぎ見ておりました。2025年の万博でも、太陽の塔のように後の世にも残るシンボルが何かできるとよいのですが…ミャクミャク様はそうなれるやら。
  • ​私の父(当時20代)が東京から大阪万博に行き、大人気の「月の石」を見るために何時間も並んだと聞きました。行列に並ぶのが苦手なあの父が!と驚きつつ、それ以上に魅力あふれる万博だったんだろうなと、万博公園を訪れるたびに思い出します。
  • 万博のときは私はまだ生まれていなかったのですが、父がディスプレイ業で万博の仕事に関わっていました。 万博の仕事にとても熱中していて、(泊まり込みで仕事をしていて)家に帰ってこなかったという話を聞いておりました。 多くの人の熱意の結晶のようなイベントだったんだろうと思います。 私はその後の花博や、万博ではありませんが、ならシルクロード博には行きました。 博覧会には独特の雰囲気がありますね。思い出に残っています。 今の子ども達にも体験してほしいです。
  • 「ディズニーランドやユニバーサルスタジオへ行っても全然感動しない…万国博の時のスゴさに比べたら…」という、少し上の世代のお話をきいたことがあったので、当時まだ生まれていなかったことに後悔しています。

  • 1970年は生まれる前でしたが、思い起こすと中学2年の遠足で国立民族学博物館に行ったことや、20代のころ万博記念公園のフリーマーケットに出店したこと、マラソンの練習会で公園を走ったことなど、繋がりがあります。また、太陽の塔のデザインが好きで、携帯電話の待ち受け画面を黒い太陽にしていたことがあります。わぁ!そう思うと、開催後もとても影響のあるイベントですね。
  • 私が生まれる前に開催されたので、行くことは叶わなかったのですが、岡本太郎さんとガンバ大阪のファンなので、万博記念公園には毎月行っています。今回の大阪万博は、行って楽しみたいと思います!
  • 1970年生まれの私は、大阪万博は知りませんが、建造物は知っています。私の行った万博はつくば万博だったので。1970年から科学が進化しましたね。

  • 1970年は生まれた年ですので、思い入れがあります。カップヌードルが発売された年で、アピールをしていたのが印象的です。

  • 1970年の万博はテレビでしか知りませんが、2025年がとても楽しみになってきました。

  • 1987年生まれです。1970年の万博は、時代の変化を象徴するキラキラしたものだったようですが、2025年はどうなるのでしょうか。盛り上がってほしいですね。

  • 1970年は生まれてないけど、2025年の万博は初めてだからたのしみです。

  • 2025年の万博では、大好きな宝塚歌劇団から5組それぞれ1人ずつアンバサダーが出るので、そちらも楽しみです!!

思い出をお寄せいただいた皆様、ありがとうございました。

大阪万博に関する思い出エピソードを募集しています!

*思い出エピソードの募集は終了しました。たくさんの素敵な思い出をお寄せいただき、ありがとうございました。

1970年の大阪万博に関する思い出をお寄せください。お寄せいただいた思い出は、個人が特定できない形で、展示コーナーの掲示板および当ホームページに掲載させていただきます。

例)万博のときは〇歳でした。家族と一緒に行きました。
例)アメリカ館に2時間並んで「月の石」を見ました。

万博に行った方はもちろん、行かなかった方、本で読んだ方、お友達から聞いた方も。好きだったパビリオンや展示、イベント、会場での過ごし方、見たもの、聞いたもの、食べたもの、乗った乗り物や、ご家族・お友達との思い出や当時の雰囲気など、大阪万博にまつわるエピソードを何でもお寄せください!

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