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本蔵 -知る司書ぞ知る(11号)

更新日:2024年1月5日


本との新たな出会いを願って、図書館で働く職員が新人からベテランまで交替でオススメ本を紹介します。大阪府立中央図書館の幅広い蔵書をお楽しみください。

2015年9月20日版

熊座の淡き星影』(ルキーノ・ヴィスコンティ/監督 紀伊國屋書店 2003.12)

今回採りあげるのはDVD版の映画作品です。
イタリアの映画監督ルキーノ・ヴィスコンティ(1906-1976)は映画史に不滅の足跡を遺した巨匠の一人です。イタリア有数の貴族モドローネ公爵家に生れたルキーノ・ヴィスコンティは、軍役を退いてからパリで舞台俳優やセットデザイナーなどを経験したのち、映画監督ジャン・ルノワールに見出されてアシスタントを務め、映画制作の世界に入りました。映画監督としてデビューしたのは、1942年制作の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』です。
第二次世界大戦中はファシズムに抗してイタリア共産党に入党し、レジスタンス活動にも従事したと言われています。こうした経歴から、ヴィスコンティは「赤い貴族」と呼ばれたこともありました。
大戦後、敗戦国イタリアの貧しい漁村に暮らす人々の姿を透徹したリアリズムで描いた『揺れる大地』(1948)を発表して映画界に復帰、ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカらとともに「ネオレアリズモ」と呼ばれる戦後イタリア映画界の潮流の一翼を担いました。
1963年に発表した『山猫』はイタリア統一戦争の蔭で没落してゆくシチリア貴族の姿を、再現不可能といわれる壮麗な舞踏会のシークエンスを挿入しながら雄大に描き、ネオレアリズモから後年の重厚で耽美的、頽廃的な作風への転換点となりました。
作風転換後、1969年の『地獄に堕ちた勇者ども』、1971年『ベニスに死す』、1972年『ルートヴィヒ』の三作品は、一般にドイツ三部作と呼ばれ、ヴィスコンティの全映画活動の頂点と目されています。

ヴィスコンティの映画監督としての活動は35年に及びますが、オペラの演出にも携わっていたため、35年の間に発表された長篇劇映画はわずか14作に過ぎません。それらの長篇劇映画は、今では1967年の『異邦人』を除いて、どの作品も日本国内でDVD化されており、映画史の巨人としての名声は揺るぎないものとなっていますが、わが国における興行環境は、生前のヴィスコンティにとって必ずしも好ましい状況ではありませんでした。
たとえばネオレアリズモ時代の作品群が日本で初公開されたのは、制作後30〜40年も過ぎた1980年前後のことでしたし、『ルートヴィヒ』でさえも制作から8年も経ってからオリジナルを大幅に短縮したものが公開されるという有様でした。いずれもヴィスコンティ死後のことです。
この『熊座の淡き星影』もまた、1965年に制作され、その年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した作品であるにもかかわらず、日本初公開は1982年でした。大阪では、今はなき北浜の三越劇場で上映されたと記憶します。

この作品はモノクロームで撮影されています。ギリシア悲劇の「エレクトラ」の主題をベースに、家族の葛藤と悲劇をサスペンスフルに描いた作品で、モノクロームの画面を包む闇が、主題の深刻さを浮き彫りにしています。
主題となっている「エレクトラ」は、日本国内でも舞台上演されたことがあり、よく知られているでしょうが、母クリュタイムネストラとその愛人アイギストスによって殺された父親アガメムノンの復讐を、その娘エレクトラが弟オレステスとともに果すという物語です。
この映画ではエレクトラに擬されるサンドラにクラウディア・カルディナーレ、オレステスに擬されるジャンニにジャン・ソレルを配しています。カルディナーレは往年の映画ファンの憧憬の的になった美貌のイタリア女優で、ヴィスコンティ作品への出演は『若者のすべて』(1960)と『山猫』に続いて三作目でした。後には『家族の肖像』(1974)にも出演していますが、本作の前後がカルディナーレの絶頂期だったといえるでしょう。
物語はサンドラが夫とともにニューヨークへ向う前に、故郷の家に戻るところから始まります。父親はナチスの強制収容所で殺された科学者で、その生前の功績を顕彰する像の除幕式に出席するのが目的でした。故郷でサンドラは弟ジャンニと再会し、母とその再婚相手ジラルディーニとも再会します。しかしサンドラは、父が強制収容所に送られたのは母とジラルディーニの密告が原因と信じており、家族の再会は葛藤と悲劇をもたらすことになるのです。
心理学ではエディプス・コンプレックスに対比する術語としてエレクトラ・コンプレックスという言葉があります。女児の父親に対する独占欲的愛情と母親への憎悪の心理を、このギリシア悲劇になぞらえてユングが提唱したものです。多分にインセストの感情を含むエレクトラ・コンプレックスのモチーフは、この映画では一ひねり加えられて、サンドラとジャンニという姉弟の間に、かつて禁忌を犯す関係が存在したかもしれないということが仄めかされ、それがこの映画に暗鬱なエロスの色彩を加えています。
ヴィスコンティの映画芸術には「滅びの美学」が通奏低音として流れていますが、とりわけ家族の崩壊、家族の悲劇は、繰り返し描かれてきた重要なテーマです。『揺れる大地』、『若者のすべて』、『地獄に堕ちた勇者ども』といった名作は、いずれも家族の間の悲劇を描いたものであり、この『熊座の淡き星影』もその系譜にある作品です。この映画はヴィスコンティの最高傑作ではないかも知れませんが、そうした系譜の中にあって最も強い印象を与える一作に違いありません。

この映画のシナリオは新書館の『ヴィスコンティ秀作集7 熊座の淡き星影』で読むことができます。この『ヴィスコンティ秀作集』のシリーズは全8巻で、ヴィスコンティの主要な映画作品が網羅されていますのでご参照ください。ヴィスコンティの研究書としてはブック・シネマテークの『ヴィスコンティ集成:退廃の美しさに彩られた孤独の肖像』、若菜薫『ヴィスコンティ:壮麗なる虚無のイマージュ』、同『ヴィスコンティ2:高貴なる錯乱のイマージュ』、柳澤一博『ヴィスコンティを求めて』などが、ヴィスコンティの伝記としてはモニカ・スターリング『ルキーノ・ヴィスコンティ:ある貴族の生涯』やジャンニ・ロンドリーノ『ヴィスコンティ:評伝=ルキノ・ヴィスコンティの生涯と劇的想像力』があります。またヴィスコンティの居城や遺品などに取材した篠山紀信の写真集『ヴィスコンティの遺香』もお薦めです。
主題となったギリシア悲劇「エレクトラ」は『ギリシャ悲劇全集 第2巻』やちくま文庫の『ギリシア悲劇2:ソポクレス』などで読むことができます。(文中敬称略)

【鰈】

「暮しの手帖」とわたし』(大橋鎭子/著 暮しの手帖社 2010.5)

これは、おせっかいな人のお話です。例えば、巻末には次のエピソードがあります。

「大阪に出張した帰りの新幹線のなかのことだけど、今日は富士山が見えるかな、って左手の窓を見たら、ちょうど夕日に真っ赤に染まった富士山が見えたのよ。とてもきれいだったのに誰も窓の外を見ていないの。もったいないでしょ。思わず私立ち上がって大きな声で、皆さん、赤富士です。めったに見られない赤富士ですよ、って言ったのよ。そしたら眠っていた人も本を読んでいた人もいっせいに窓の外を眺めていたわ」

これが、他の人だったら、眠りを妨げられて気分を悪くする人もいるかもしれません。本を読んで集中しているのに興をそがれたとイライラするひともいるかもしれません。でも、この人の屈託のなさの前には「東京駅を降りるとき、私にありがとうっておっしゃる方や握手をもとめて来る方もいらしたわ」となるのです。

この本は、おせっかいでおおらかな著者が、雑誌『暮しの手帖』*を作ってきたときの出来事が収められています。

雑誌『暮しの手帖』は、著者は社長、編集長は花森安治で昭和23年に『美しい暮しの手帖』*の名前でスタート、一時は発行部数が100万部を超すほどでした。

花森という人は、徹底した人だったようです。有名な商品テストでは、トースターの回(99号)では、各社自選の33台をテスト、焼いた食パンは43,088枚。掃除機の回(58号)では、まずゴミの研究を重ねて自家製ゴミを作るところからスタートします。ボールペンの回(68号)では1本850円の外国製から1本30円の国産まで14種をインクがなくなるまで書いて、ペン先を顕微鏡で比較しました。

酒井寛著『花森安治の仕事』には「商品テストを失敗したら雑誌はつぶれる」「人さまが命がけで作っている物を批評するのだから、商品テストは命がけだ」との強い言葉も載っています。その徹底ぶりはどこからきたのでしょうか。

花森は戦前、自身が大政翼賛会で広告の仕事をしていたことに対して「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言い訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない。だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている」(『週刊朝日』昭和46年11月19日号)と言っていたとあります。

本書には、著者が雑誌の創刊を持ちかけたとき「(先に)なだれを打って戦争に突っ込んでいったのは、1人1人が自分の暮しを大切にしなかったからだと思う」と花森が語り、暮しを中心に据えた雑誌作りに了解の返事をしたことが書かれています。花森が、暮しを大切にするように、広告や宣伝にだまされない人をふやしていくように、強い使命感を持っていたことが伺えます。

その使命感に燃える花森のそばで、著者が底抜けのおおらかさで、支えながら、ときに恐ろしい花森を逆に叱り飛ばしながら、臆せずにいろいろなプランを出し、エラいさんにも物怖じせず原稿をもらいに行く様子は、読んでいても痛快です。来年には朝のドラマになるとのニュースもありました。よろしければ、お手に取ってみてください。

*は館内利用のみです

【春】

大阪市史物語 : 20世紀の軌跡(大阪文庫11)』(藤本篤/著 松籟社 1993.5)

1915(大正4)年に完成した『大阪市史』*は、出版後、今年でちょうど百年になります。この市史の編纂の後も、大阪市では数種類の市史が出版されていきます。この本には、『大阪市史』を中心に出版に関する出来事と時代背景が描かれています。

同じ時期に「大阪府誌」も編纂を開始し、2年後には完成しています。大阪府が第五回内国勧業博覧会出陳のため、2年という短期間で、府吏員らによる分野別のものを編纂しようとしたのに対し、大阪市ではその2倍半の年数を費やし、編纂者には「斯道ノ専門家」を招き、「太古以来」の一貫した史的展開を叙述した市史を編纂するというのでした。

明治の文豪幸田露伴の弟、幸田成友(しげとも)が編纂長として就任を要請され、受諾します。当時、28歳でした。大阪市は彼を厚遇で迎えました。市長が3,500円、助役が2,000円の時代に1,400円の年俸でした。当時、第一高等学校教授であった夏目漱石の年俸が600円ですから、破格のものでした。大阪市の理事者はそれだけではなく、3人の実力者藤沢南岳・平瀬亀之助(露香)・小林利恭にも編纂顧問を依頼しました。史料集めは、大阪だけではなく、東京でも収集に努めました。東京での史料収集は予定どおり進捗しましたが、大阪では、容易ではありませんでした。

当時、大阪には公立の資料保存機関は、大阪商品陳列所図書部と、1888(明治21)年に廃止された大阪書籍館の蔵書を引き継いだ大阪博物場図書室があっただけで、府立の大阪図書館(現中之島図書館)は、建設中という状態でした。史料集めは、市内の旧家・蔵書家・学校などつてを頼り、松雲堂二代店主鹿田静七にも協力を仰ぐこととなりました。彼は、多くの蔵書家や史料所蔵者を紹介しました。彼とのつきあいは「大阪史談会」の創立にもつながっていきました。

こうして集められた史料は、みずから取捨選択し、写字生らに筆写させ、製本し、のちの市史本文執筆の便を考えて、同年月日に起こった事件、事象ごとにまとめ、「大阪編年史」*として編纂されました。市史本文の執筆は、この史料が完成してからの着手でした。1909(明治42)年3月、ようやく脱稿しました。この間に成友は髪が薄くなったといわれるほどの苦心作でした。1911(明治44)年に第1巻が刊行され、1915(大正4)年の索引刊行をもって全5巻が完成しました。着手以来、13年あまり。市史は、好評で再版と、2度復刻刊行されています。

「大阪市史」は、対象とする時代を市史完成直前までと考えていましたが、結局は幕末維新で終わりました。市史の続編を望む声は高く、関市長は、小学校時代の同級生でもあった幸田成友に依頼しますが、多忙のため、辞退されます。そこで、旧知の本庄栄治郎博士に依頼しました。博士の快諾により編纂事業は大正15年4月から始められます。それが「明治大正大阪市史」*です。

今回は、タイプライターが使われ、史料の目録が複数部数作成が可能になり、事業進行に大いに役立ちました。他に新しい方法として、談話の聞き取りと談話会の開催がありました。どの参加者も当時の大阪で知識人・郷土史家・蔵書家・財界人として知られた人々でした。大阪府立図書館長であった今井貫一氏も関わりが大きかったようです。1935(昭和10)年3月に全8巻完成。こちらも好評で、2度復刻刊行されています。

戦災の復興が進む中、過去の反省のもとに将来の指針を求め、それらを記録して後世に残そうと、戦後の自治体史として最初に着手されたのが「昭和大阪市史」*です。「明治大正大阪市史」と同様編集主任は本庄栄治郎博士でした。記述の対象範囲は1926(昭和元)年から1945(昭和20)年8月までの20年間でしたが、史料の散逸は甚だしいものがありました。1954(昭和29)年3月全8巻が完成しました。

1961(昭和36)年7月からは「昭和大阪市史続編」*の編集が開始されました。この頃から、常設の大阪市史編集室が設置されます。1969(昭和44)年に完結します。

「市制100周年記念事業」として「新修大阪市史」*本文編全10巻が1996(平成8)年に完成。史料編は、全22巻、まだ刊行の途中です。それが終わったら、次の「大阪市史」が作られることになるのでしょうか。まだまだ、物語は続きそうです。

*は館内利用のみです

【雨水】

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