大阪府立図書館

English 中文 한국어 やさしいにほんご
メニューボタン
背景色:
文字サイズ:

本蔵 -知る司書ぞ知る(3号)

更新日:2024年1月5日

本との新たな出会いを願って、図書館で働く職員が新人からベテランまで交替でオススメ本を紹介します。大阪府立中央図書館の幅広い蔵書をお楽しみください。

2015年1月20日版

清唱千首』(塚本邦雄撰 富山房 1983.4)

当館の所在地である東大阪市にゆかりの文学者といえば、なんといっても司馬遼太郎です。長年東大阪市に在住し、数々の名作が東大阪の地から生まれました。旧宅に隣接して司馬遼太郎記念館も設立されています。また田辺聖子も東大阪市ゆかりの文学者です。田辺聖子は現在の大阪樟蔭女子大学の前身である樟蔭女子専門学校出身で、同大学図書館には田辺聖子文学館が設けられています。
この二人に比べるとあまり知られていませんが、50年あまりも東大阪市南鴻池に在住していた塚本邦雄も、日本の文学史に大きな足跡を残した人物です。

歌人で作家・評論家の塚本邦雄(1920~2005)は、滋賀県出身で、商社勤務のかたわら作歌活動を始め、1951年に第一歌集『水葬物語』を刊行しました。刊行後しばらくはさしたる話題にもならなかった塚本邦雄の短歌ですが、雑誌「短歌研究」編集長の中井英夫に見出されたことにより、一躍前衛短歌とよばれる短歌革新運動の旗手として注目を集めるようになります。昭和三十年代の歌壇は、塚本邦雄や岡井隆、寺山修司らの前衛短歌が席巻しました。
塚本邦雄と前衛短歌運動が短歌の歴史にどのような地位を占めるのかは、永田和宏の次の一文に端的に語られています。

「近代短歌にくっきりとした終止符を打ったのが、塚本邦雄に代表される前衛短歌運動であった。近代短歌と現代短歌をどこで分けるのかについては、短歌史上でもなお諸説があるが、前衛短歌の出現を以てその区切りとするという見方が、ほぼ定着しつつあり、私自身もその考えをもっている」(『現代秀歌』岩波新書、2014)

前衛短歌とは、短歌における表現の革新運動でした。塚本邦雄はそのトップランナーだったのです。明治以降、西洋的自我の覚醒を背景とする近代短歌が登場して伝統的な和歌の世界に革新をもたらしたように、塚本邦雄は写実性や自我の表象を歌い上げる近代短歌の世界に叛旗を翻し、大胆に韻律を破壊し、煌めくような語彙を鏤めて、虚構世界を描き出しました。その虚構の中に、真実の自我が暗喩されているのが塚本短歌の世界であり、このため塚本邦雄の短歌はきわめて難解です。こうしたフィクショナリーな短歌表現こそが、近代短歌と現代短歌の区切りとなった前衛短歌の特徴といわれています。

塚本邦雄の文学活動は、歌人としてのみならず小説や随筆、評論などにまたがっており、また短歌だけではなく東西の文学や芸術文化全般に幅広く及んでいます。そうした文学活動の中で、近世以前の和歌や歌人についての研究も、塚本邦雄の業績の大きな部分を占めています。
今回紹介する本は、塚本邦雄の撰になる近世以前の和歌集です。万葉の時代から江戸末期までの勅撰集や家集を博捜して一千首の和歌を選び出し、その一首ずつに短評を附しています。およそ千二百年にわたる和歌の歴史をさかのぼり、膨大な数の和歌の中から、一千首を選び出すことがどれほどの難事かは、万葉集と勅撰二十一代集だけでも四万首にものぼることを考えれば想像がつくでしょう。勅撰から漏れた和歌も選ばれていますし、十五世紀なかば以後は勅撰和歌集が編まれていません。この『清唱千首』は塚本邦雄の和歌研究の蓄積が昇華したものといえるでしょう。和歌入門書として手に取ってもらえればと思います。
塚本邦雄の著書は、難しい歌論書から比較的軽い随筆まで、当館にはたくさん所蔵しています。興味がある方は4階カウンターの司書にご相談ください。

なお、この一文では難解きわまる塚本邦雄の短歌を紹介することは、敢えて避けました。関心を持たれた方には、『コレクション日本歌人選019 塚本邦雄』が入門書として適当でしょう。塚本短歌を包括的に鑑賞するには、現代歌人文庫の『塚本邦雄歌集』『塚本邦雄歌集 続』、塚本の自選歌集『寵歌』をおすすめします。(文中敬称略)

【鰈】

キャッツ:T・S・エリオットの猫詩集』(T・S・エリオット/著 大和書房 1983.4)

「キャッツ」というと、世界中で大ヒットしたミュージカルとして有名ですが、実はこの作品には原作が存在することをご存知でしょうか。今回は、その詩集の邦訳版をご紹介します。

原作の作者T・Sエリオットは、1888年アメリカに生まれました(のちイギリスに帰化)。詩人や劇作家、文芸批評家として活躍し、1948年にはノーベル文学賞を受賞しています。『荒地』や『四つの四重奏』など、その代表作は難解な詩のイメージが強いエリオットですが、のちにミュージカル「キャッツ」の原作となる“Old Possum’s book of practical cats:The illustrated Old Possum”(洋書)は、子ども向けの詩集として1939年に出版されました。

今回ご紹介する邦訳版は、その全訳です。同じく北村太郎が訳した『ふしぎ猫マキャヴィティ』の新版として出版されたのですが、旧版との違いは、1つ1つの詩に「猫ノート」と題した訳者の注がついていることです。単なる感想だけの回もありますが、原文の言葉あそびなどについて解説しているものもあります。もちろん何の予備知識も入れず自由に想像しながら読むのも詩の楽しみ方のひとつですが、この「猫ノート」を参考にすると、詩の描写がイギリスに実在する地名や作品などとリンクしていることが分かります。登場する猫たちがより生き生きと感じられ、また違った楽しみ方ができるのではないでしょうか。こちらの詩集を読み終わったあとは、作中に出てきた地名や作品などについて調べてみるのも良いかもしれません。

さて、ミュージカル「キャッツ」をご覧になったことのある方はすぐにお気づきになるかと思いますが、残念ながらこの原作には、「グラマー猫グリザベラ」が出てきません。「訳者あとがき」によると、子ども向けの作品にはふさわしくないということでエリオットが詩集に入れなかったものが、ミュージカルを作る際に制作者の目に留まり、新たにストーリーに加えられたという経緯があったそうです。その点では少々寂しいような気もしますが、一方で原作には載っているものの、日本での劇団四季のミュージカルでは演目として取り上げられていない詩もあります。その詩は、意外にも猫以外のあの動物を中心に展開します。何の動物が出てくるのか気になった方は、ぜひ読んで確かめてみてください。

【がーな】

波止場日記:労働と思索」(エリック・ホッファー/著 みすず書房 1971.4)

冒頭───「午前五時。独善的になっている。長い仕事の後にはいつもこうなる。仕事は蟻を残忍にするばかりではなく人間をも残忍にする、とトルストイがどこかで言っていた。」

これは1958年6月1日の日記。書いたのは、エリック・ホッファー。1902年ニューヨーク生まれ。7歳のときに母親が他界し、同じ年に突然視力を失います。8年後に突然視力が回復すると、再び失明するかもしれないという不安におそわれながら読書に没頭。その後、職を転々とするなかで、モンテーニュの『エセー』に魅せられ、自らの思考を文章にしたいと著述をはじめたそうです。サンフランシスコ湾で荷役仕事を続けながら読書と思索に没頭したことから、ひとは彼をこう呼びました──「沖仲仕の哲学者」。

今となっては、この本を知ったきっかけも忘れてしまいましたが、この本に惹きつけられたのが、つぎの文章に出くわしたことに間違いありません。

「世間は私に対して何ら尽す義務はない、という確信からかすかな喜びを得ている。私が満足するのに必要なものはごくわずかである。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが、私にとっては生活のすべてである。」(p.70)

生きていく上で自分にとって必要なことが、最小限に絞り込まれていて明確です。生活に必要なお金を得るために仕事をして、残るすべての時間を読書と思索と著述にあて、しかもそのために図書館の近くに部屋を借りるという見事なまでの徹底ぶりです。そんな生き方が文体の簡潔さに現れているように思えるのは考えすぎでしょうか。あれもこれもしたい、すぐに集めたがり捨てられない、そして収拾がつかなくなって混乱してしまうという煩悩にまみれた私にとって、この本の魅力は、このようなホッファーのシンプルな生き方、ライフスタイルを示しているところにあるのです。

と、ここまで書いて、ふと、まわりを見渡せば、片付ける時間もなく散らかった自分の部屋。そこでは、肥大化していく「読みたい本リスト」に加えられるのを待っている出版目録や書評の切り抜きが散乱し、一度も聴いていない音楽で満杯になったハードディスクはむきだしのまま積み上がり、いつか観ようと録画したディスクは、もはやどこに何がどれだけあるのかもわからない・・・そんな光景をぼんやり眺めていると、コリン・ウィルソンが『わが青春わが読書』の冒頭で書いた半ば諦めの言葉を思い出して、ひとり苦笑いをするしかないのです。

「そして、四十代なかばに達したころだと思う。ある日突然、私は、もう自分には買った本をすべて読む時間も、買ったレコードをすべて聴く時間も残っていないことに気がついた」

【oton】

ページの先頭へ


PAGE TOP