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本蔵 -知る司書ぞ知る(2号)

更新日:2024年1月5日


本との新たな出会いを願って 、図書館で働く職員が新人からベテランまで 交替で オススメ本を紹介します。大阪府立中央図書館の幅広い蔵書をお楽しみください。

2014年12月20日版

谷崎家の思い出』(高木治江/著 構想社 1977.6

この本は未完の回顧録です。著者の高木治江(1907~1972)は、大阪市出身で大阪府女子専門学校(のちの大阪府立女子大学)を第二期生として卒業しています。高木は、1929年3月から翌1930年8月まで、当時阪急岡本駅近郊にあった谷崎潤一郎の自宅に住み込んで、その助手を務めていました。高木の晩年に起稿されたこの回顧録は、昭和初期の谷崎潤一郎と、この文豪を取り巻く人々の動静を活写していますが、残念なことに1931年11月ごろの出来事まで筆が進んだところで、著者の死によって中絶されました。遺された未完の原稿を取りまとめて出版したのが本書です。

谷崎潤一郎についての伝記的著作は数多くあり、その生涯を通覧するものとしては、野村尚吾の『伝記谷崎潤一郎』や、小谷野敦『谷崎潤一郎伝:堂々たる人生』などが挙げられます。また谷崎周辺にあった人物の回顧録としては、谷崎松子の『倚松庵の夢』などの著作や、伊吹和子の『われよりほかに:谷崎潤一郎最後の十二年』、谷崎終平『懐かしき人々:兄潤一郎とその周辺』などがあります。
これらの著作の中で、本書がとりわけ興味深いのは、谷崎潤一郎の二番目の妻であった古川丁未子(ふるかわ・とみこ)の、谷崎との出会いから結婚に至るエピソードが詳細に語られている点にあります。

谷崎潤一郎は生涯に三度の結婚をしました。最初の妻が千代、二度目が丁未子、三度目が松子です。
千代との間にはただ一人の実子鮎子をもうけていますが、1930年に離婚しました。離婚の際、谷崎、千代、そして谷崎の親友である佐藤春夫の連名で、谷崎夫妻の離婚と、千代と佐藤との再婚を報じる挨拶状が新聞にスクープされたことから、「細君譲渡事件」として世上を騒がせました。また離婚に至るまでの間にも、谷崎と佐藤の間では千代をめぐって激しい葛藤が存在しました。それは「小田原事件」と呼ばれ、佐藤春夫の絶唱『秋刀魚の歌』の創作の源泉となっています。
また松子は、船場の豪商根津商店の御寮人であったときに谷崎と知り合い、夫の遊蕩に伴う家運の衰退と、谷崎からの密やかな、しかし猛烈なアプローチを経て夫との離婚、谷崎との再婚を果たしたことや、谷崎文学の頂点に立つ『春琴抄』や『蘆刈』の主人公のモデルに擬されたことなどで、広くその名を知られています。
この二人に比べ、丁未子の存在は谷崎に深い関心を持つ人以外には、ほとんど知られていないでしょう。谷崎と丁未子の結婚は1931年4月、正式離婚は1934年10月のことですが、1932年12月には別居していますから、結婚生活は事実上わずか一年半に過ぎません。谷崎文学への影響も、『猫と庄造と二人のおんな』にその片鱗がうかがえるだけであり、谷崎の三人の妻の中では、最も語られることの少ない人物です。

丁未子と谷崎との出会いは、1928年12月25日のことです。当時谷崎は大阪を舞台にした長編『』を執筆中で、大阪弁の会話を描くための助手として、大阪女子専門学校の第一期卒業生である武市遊亀子を雇っていましたが、その武市から谷崎家に遊びに来るよう誘いを受けた高木治江が、同級生の古川丁未子らに声をかけて同道したのがきっかけです。
その後高木は、結婚して助手を辞めた武市のあとがまとして谷崎家に住み込み、丁未子は谷崎の口利きで関西中央新聞の記者となります。丁未子はさらに東京で働くことを望み、谷崎から菊池寛に依頼して文藝春秋の雑誌「婦人サロン」の記者へと転じました。
丁未子が東京へ発ったころ、谷崎は最初の妻千代と離婚しました。マスコミの喧騒を避けてしばらく北陸地方や奈良の吉野などを漫遊したのち、1930年12月、谷崎は上京しました。この間、谷崎は複数の女性と見合いをしたようですがうまくいかず、それを嗅ぎ付けた新聞記者の取材に対して、再婚相手に求める七箇条の条件を示したところ、それが紙面に掲載されました。この記事を知った高木治江は、そこに示された条件は古川丁未子その人を指すものだと考え、東京の丁未子に電報を送って結婚を申し込めと勧めたそうです。
それが奏功したのかどうかはわかりませんが、谷崎は翌年1月にまた上京して丁未子に求婚、その月末には二人で丁未子の故郷の鳥取へ赴き、両親へのあいさつも済ませ、4月に自宅でささやかに挙式しました。数え年で谷崎は46歳、丁未子は26歳でした。

結婚当初、睦まじく暮らしていたこの新婚夫婦にとって、最初の暗雲は、谷崎の金銭的窮迫でした。いわゆる円本ブームで巨額の印税を手にした谷崎でしたが、岡本の邸宅の購入と増築や、美食に耽る贅沢な暮らしぶりが災いして、多額の借金に加え所得税を滞納する状態でした。それらを返済するため邸宅の売却を余儀なくされた谷崎夫妻は、結婚後間もない5月に、高野山龍泉院内の泰雲院を借りて移り住みました。
そのことによって二つ目の暗雲が訪れます。高野山への転居は、賄い事を女中に委ねていた生活との訣別でもありました。しかし、それまでパンをかじりながら編集者としての仕事をしていた丁未子に、美食家の谷崎を満足させるような料理ができようはずがありません。飯炊きさえろくにできなかったのです。そこから夫婦の亀裂が始まっていきます。
一方で谷崎の心は、実は根津家の御寮人松子への憧憬にあふれていました。谷崎は高野山で代表作のひとつ『盲目物語』を書き上げました。戦国一の美女とうたわれた織田信長の妹お市の方と、それに仕える盲目の按摩師の物語ですが、谷崎にとってお市の方のイメージは、根津松子その人だったのです。9月になって高野山を退去した谷崎夫妻は、松子の世話で、根津商店の寮を借り受けてそこで短期間暮らしました。根津商店の寮があったのは、当時の大阪府中河内郡孔舎衙村池端稲荷山、現在の東大阪市池之端町近辺でしょう。谷崎は大阪を舞台にして数々の小説を書きましたが、大阪府内に居を構えたのは、この東大阪の根津商店の寮を借りた一時期だけです。さらにこののち、谷崎夫妻は夙川にあった根津家の別荘に移り、翌年には魚崎に転居します。その間、谷崎は松子との恋愛関係を深めていき、それとは対照的に丁未子との亀裂は広がっていったのです。

丁未子との出会いから結婚、離婚に至るエピソードは、谷崎潤一郎という稀有の作家の強烈なエゴイズムをまざまざと見せつけます。そしてそれは、古川丁未子という女性が父娘ほどにも年齢の離れた文豪のエゴイズムに翻弄された事跡でもありますが、高木治江の著作は、谷崎夫妻が東大阪の根津寮から夙川に転居するところで絶筆となりました。完結していれば、誰にも知られていない丁未子のエピソードが記されていたに違いありませんが、残念ながらそれは叶わぬ望みです。
古川丁未子についての研究には、たつみ都志の論文「知られざる古川丁未子」(『芦屋市谷崎潤一郎記念館ニュース』*6号~9号に連載)があります。
高木治江が書けなかった谷崎と丁未子の離婚までの心象については、秦恒平の『神と玩具との間:昭和初年の谷崎潤一郎』に、谷崎や丁未子の書簡を翻刻して検討されています。興味があればご参照ください。(文中敬称略)

*の資料は館内利用のみです。
【鰈】

幕末下級武士の絵日記 : その暮らしと住まいの風景を読む』(大岡敏昭/著 相模書房 2007.5)

幕末の武蔵国忍藩に仕える下級武士、尾崎石城の日記『石城日記』を通して、江戸時代の下級武士の暮らしぶりを紹介した本です。
尾崎石城は書や画に秀で、日常生活をいきいき描写した絵日記を残しました。それには、友人との語らいの内容や食事のメニューまで細かく記され、その絵は、繊細かつユーモアに満ちて、思わず見入ってしまいます。
石城は、元は百石取りの中級武士でしたが、29歳のとき、藩主に上書をしてとがめられ、僅か十人扶持の下級身分に下げられました。そのため養子先の尾崎家からも出され、妹夫婦の家に身を寄せる立場でした。そうした境遇に時折鬱々とした思いも記しつつ、日々は飄々と生きている姿が印象的です。
友人と毎日のように会い、調理をして食事をするシーンがよく描かれており、その素朴ながら季節の素材が並んだ思いのほか多彩な食卓や宴席の様子はとてもほのぼのしています。また書物の内容について友人と論じあったり、浄瑠璃をうなったり、貸本屋から本を借りたりといった場面からは、幕末の地方都市の文化的なことが見て取れます。
著者の大岡氏は住宅史学の専門家であるため、武士の住宅のつくりや城下町についても触れられています。特に、近代以降、住まいの近代化論の中で在来の日本家屋は遅れたものとされてきたことに対し、江戸時代の武士の住まいは決して遅れたものではなく、日本流のプライバシーがあり、道に正面を配し外の自然や社会と調和した開放的な住まいであったことが論じられています。
『石城日記』の原本は、所蔵する慶應義塾大学のホームページで画像を見ることができます。

江戸時代の下級武士の日記を紹介した本としては、『下級武士の食日記(生活人新書)』もあります。こちらは、紀州藩士の酒井伴四郎が江戸藩邸勤務の間に書き残した日記を紹介しています。江戸での食、観光地や祭りの見物、藩邸勤めの苦労話など、こちらも面白いエピソードがもりだくさんです。

これらの本からは、現代の私たちと変わらない他愛なくも楽しい日常と同時に、今は失われつつある周囲の人との濃密な関わりの中にあった江戸時代の暮らしを感じられます。

【ハチ公】

子どもはもういない」(ニール・ポストマン/著 新樹社 1985.5)

ニール・ポストマンの『子どもはもういない』は、ポスト近代における子ども観の変化を扱い、子どもや出版の歴史に興味を持つ者にとって、今なお、示唆と発見をもたらしてくれる書物です。Ph.アリエス同様に、彼もまた「子ども」という概念そのものが、文化的・社会的に作り出されたものであり、近代に初めて認識されたものだと考えています。マクルーハンのメディア論の影響の下、彼は「子ども期の成立」にかかわる要件として、(1)読み書き能力の有無、(2)教育という観念、(3)羞恥心という観念をあげています。単に「小さな大人」にすぎなかった存在(子ども期という概念がなかったわけですから)が、大人から分節され、子どもとして存在を開始したのは、活字メディアの発達によって、読み書き能力に伴う知識の差が生まれたことを由縁とします。子どもとは教育を受ける存在を指します。そこでは、子どもであるということは羞恥心、つまり性的なことと切り離されているかどうかで判定されます。子どもと性(あるいは恋愛)とを取り合わせたときの気持ち悪さ、それは近代的な価値観を内面化している我々には自明の感覚としてあるわけですが、その感覚はしかし、文化的に内面化されたものに過ぎません。三木露風の童謡『あかとんぼ』では、「ねえやは十五で嫁に行」っています。子どもと性が無縁であるというのは、「伝統の創造」のひとつにすぎないのかもしれません。

子どもと性の問題を、たとえば、日本最初期の児童文学のひとつである、巌谷小波の『こがね丸』(1891(明治24)年)から読んでみましょう。この物語は七五調の文体も耳に心地よい、勧善懲悪の復讐譚です。登場人物が動物(しかも有名おとぎ話の子孫!)である点では、手塚治虫の『ジャングル大帝』の先駆けともいえますし、ライバル的存在と友情を結んで復讐に向かうというあたりは、『週刊少年ジャンプ』系ヒーロー漫画と同様の構造を持っています。当時の子どもたちの胸を躍らせ、ロングセラーになったのも当然だったといえましょう。しかし、「子ども向け?」と首をかしげたくなる部分も散見するのも確かです。

主人公こがね丸(犬)の仇敵である金眸(虎)は照射(女鹿)という側妾をはべらしておりますし、こがね丸に救われた阿駒(鼠)は彼女に横恋慕した烏玉(黒猫)に夫を殺され、さらにはこがね丸のため、天麩羅にされるべく自ら死を選ぶのです。現在ならば、子どもたちの前から隠されていて当然と感じられるような、これらの性的な(あるいは残虐な)内容が、児童文学の揺籃期には受容されていたわけです。もっとも、同時代人による批判もあったようですし、じっさい、小波自身が三十年後、口語にリライトした『こがね丸』(1921(大正10)年)では、照射の存在は抹消され、阿駒の夫の死も、烏玉の情欲による殺害ではなく、単に鼠が猫に襲われただけの自然淘汰に還元されてしまいます。大正デモクラシーの自由な時代であったわけですが、子どもたちにとって性的な内容は隠蔽されるべきものだとみなされていたといえます。さらに、より多くの子どもたちに親しまれた講談社の絵本版(1938(昭和13)年)では、照射のみならず、阿駒までもがストーリーから削除されてしまいます。

『こがね丸』がリライトされたころから、「性」どころかこの世の汚れとは無縁な存在として子どもが描かれ始められます。その時代、親が求め、子どもが求めたのは童心主義の『赤い鳥』であり、立身出世主義の『少年倶楽部』でした。こうした少年文学のジャンルとしての確立が「子どもらしさ」という観念を生み出したといえます。河原和枝の『子ども観の近代』によれば、雑誌『赤い鳥』における子どものイメージは、「良い子」「弱い子」「純粋な子」であり、子どもとは、純粋で無垢な存在として誌面に登場します。現実の子どもたちもまた、大人にとって良い子であり、庇護されるべき不完全な弱い子であり、疑いと汚れを知らない純粋な子であることが期待され、その価値観を内面化させられていくのです。そうした子どもであれば、教育政策の周縁で、カリキュラム内容を受け取るだけの受動的な存在としておくのに都合がよいことになります。イデオロギー装置としての学校とマスコミによって、「童心」という作り出されたイメージが子どもたちに内面化(=イデオロギー化)されたといえます。その意味では、『こがね丸』における性的なものの変遷は、プレ近代から近代への変化を表しているといえるかもしれません。

そして、ポスト近代です。『子どもはもういない』の後半でポストマンは、電子メディアの発達によって、大人による情報の隠蔽が限界を迎え、もはや子どもたちは純粋無垢な存在ではいられなくなったといいます。近代においてメディアの発達が生み出した子どもたち(正確には「子ども期」)は、メディアのさらなる発達によって消滅しようとしているというのです。この部分は批判もあるものの、スリリングであり、ぜひとも一読していただきたいところであります。確かに、恋愛が中心的なテーマとなりがちな、YA(ヤングアダルト)というジャンルの形成をはじめ、大人と子どもの差は縮小しているのかもしれません(世間を見れば、子どものような大人が増えただけなのかもしれませんが)。児童文学がジャンルとして更なる発展を遂げるのか、それとも大人向け、子供向けというジャンル分けそのものが意味をなくしてしまうのか、文学に興味を持つものとしては大いに関心のあるところです。児童文学の主役であるはずの「子ども」が一体何なのかを問い直し、考えさせてくれる資料として、『子どもはもういない』を読み直す価値はあるかと思います。

【楮】

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