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本蔵 -知る司書ぞ知る(1号)

更新日:2024年1月5日


本との新たな出会いを願って、図書館で働く職員が新人からベテランまで交替でオススメ本を紹介します。大阪府立中央図書館の幅広い蔵書をお楽しみください。

2014年11月20日版

グリーン・ファーザー インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡
(杉山満丸/著 ひくまの出版 2001.12)

砂漠緑化に貢献した環境保護活動家といえば、ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイの名前が思い浮かびますし、日本人では日本沙漠緑化協会を設立して中国の内モンゴル自治区で緑化活動を進め、マグサイサイ賞を受賞した遠山正瑛の名もよく知られています。
これらの人々にくらべると、ここで紹介する本の主人公である杉山龍丸の名は、ほとんど無名といってもよいでしょう。ですが、彼がインドでなしとげた砂漠緑化活動の偉大さ、困難さは、マータイや遠山のそれに勝るとも劣らないものでした。

杉山龍丸(1919~1987)は福岡県出身です。父は怪奇幻想的な作風の小説家として有名な夢野久作(本名杉山泰道)で、祖父は明治から昭和初期にかけて政財界に大きな影響力を持ったフィクサーの杉山茂丸という人物でした。
昭和10年に祖父杉山茂丸が、翌11年に父夢野久作が相次いで死去したため、弱冠16歳で杉山家を継いだ龍丸は、陸軍士官学校へ進んで職業軍人の道を歩み、太平洋戦争中は航空機整備隊の将校として南方戦線で従軍しました。フィリピンへ渡る輸送船が水雷攻撃で撃沈されて海上を漂流したり、戦闘機の銃撃で胸部貫通銃創を負うなど何度も死線をさまよいながらも生きて終戦を迎えました。
戦後、東京でプラスチック加工業などを営んでいた龍丸は、友人の依頼でインドからの留学生の世話をしたことがきっかけとなり、1962年に初めてインドを訪問、下層民の貧困と飢餓を目の当たりにしました。それ以来龍丸は何度もインドへ渡り、砂漠化した土地を農地化するための実験と指導を繰り返します。1964年にはインド西部のパンジャップ州で延長40キロに及ぶ国道沿線にユーカリの木の栽培を開始してこれに成功、それから10年もたたない間に、成長したユーカリの根の保水力によって、砂漠だった国道沿線で米の栽培ができるようになったのです。

こうした活動により、杉山龍丸は現地で「グリーン・ファーザー」と呼ばれ今も尊敬を受けているのですが、彼の営為の偉大さは、これらの活動を、誰の力も借りず、持てる財産のすべてをなげうってたった一人でなしとげたことにあります。
龍丸の父夢野久作は、小説家になるまでは福岡郊外の香椎村(現福岡市東区)で約三万坪の農園を営んでいました。夢野久作が農園の土地を買収したのは大正の初期で、抵当のついた土地を安く買いたたいたともいいます。戦後の経済成長期に福岡市域が拡張していく中で、この農園の周辺も市街化が進み、おそらく地価も上昇していたことと思われますが、龍丸はこの三万坪の土地を次々に切り売りし、そうして得た数十億円ともいわれる資金を、すべてインドの緑化につぎ込んだのです。三万坪の大地主であった龍丸が、1987年に死去したときには借家ずまいであったといいますから、その徹底ぶりは凄まじいというしかありません。
私財が涸渇したとき、龍丸は政治の力を借りようとしたことがありました。頼った相手は前内閣総理大臣佐藤栄作で、昭和48年3月15日のことです。この日の佐藤栄作の日記には「草場毅君が杉山龍丸君(茂丸翁の孫)と一緒に来て印度の開発計画をのべる。力をかすに値する仕事か」(『佐藤栄作日記 第5巻』)と書かれています。戦前の鉄道官僚だった佐藤栄作は、さすがに龍丸の祖父茂丸のことを知っていましたが、結局具体的な支援は得られなかったようです。

この本の著者は、杉山龍丸の長男です。極めて厳格だった父に反撥を続けていた著者は、龍丸の事蹟を追うテレビ番組の企画でインドを訪れ、亡父がやりとげた砂漠緑化の成果を目の当たりにし、その偉大さを初めて理解して涙します。亡き父と息子とが時空を超えて和解するシーンは、月並みな表現ですが、感動的です。
杉山龍丸と杉山家に関心をもたれた方には、『夢野一族 杉山家三代の軌跡』(多田茂治著)もおすすめです。
また杉山龍丸自身の著作は、当館に『わが父・夢野久作』と『砂漠緑化に挑む』が、編著は『夢野久作の日記』が所蔵されています。いずれも貸出しできます。(文中敬称略)

【鰈】

『たい焼の魚拓:絶滅寸前『天然物』たい焼37種』 (宮嶋康彦/著 JTB 2002.2)

ご存知でしょうか、たい焼の考案者は大阪出身でした。

最初のたい焼は1909(明治42)年、東京で売り出されました。当時のたい焼は、大きな植木鋏のような道具を用いて1匹ずつ焼くもので、道具は約2キロと重く、量産は体力的にもきつい作業でした。時代が下るにつれて、同時に数匹を作ることができるよう道具に工夫が加えられ、製法は変わっていきます。昭和の大ヒット曲「およげ!たいやきくん」の歌詞では、たい焼は鉄板の上で焼かれており、複数匹を一度に作る方法が一般化していたことが窺えます。しかし、現在でも当初からの製法を継承している店があり、本書では1匹ずつ作られたたい焼を「天然物」、鉄板等により複数匹で焼かれたものを「養殖物」と呼んでいます。誕生から1世紀あまりを経て、たい焼界では「養殖物」が大勢を占めているようです。

著者は1983年に「ほんの冗談で」初めてたい焼の魚拓を採取、その後「天然物」の希少性に気づき、全国で魚拓を集めてきました。一口にたい焼と言っても、その姿は変化に富んでいます。ピンと背をそらせた威勢のいいもの、まっすぐな姿勢を保ったもの、尾びれが大きいもの、小ぶりで上品なもの。全体に角がとれた感じなのは、道具が長年使用されてきたからでしょうか。古来お祝い事に使われてきた鯛には多くの意匠があり、たい焼にも反映したのだろうと思われます。日常生活では温かいうちにと急いで食べてしまい、その造形を意識することもありませんが、白黒の魚拓はユニークなデザインを際立たせます。

たい焼は時間をおくと汗をかいてしまうので、魚拓も購入後できるだけ早く採るのが望ましいようです。筆者はその後たい焼を「2枚におろし」、墨のついた部分を採集箱に納め、ほかの部分は美味しくいただいたそうです。採集期間が20年にも及んだため、本書の出版時には既に閉店していた店もありますが、訪れた際のエピソードや店主とのやりとりも添えられ、各地の人々の生活を感じることができます。なお、「天然物」が発見されなかったためか、残念ながら近畿圏のたい焼は紹介されていません。

【OC】

『愛についてのデッサン:佐古啓介の旅』(野呂邦暢/著 角川書店 1979.7)

この作品は古本屋の店主を主人公にした連作小説です。

古本屋の店主を主人公にした小説はこれまで数多く刊行されています。たとえば京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」や紀田順一郎の『古本街の殺人』をはじめとした神保町を舞台にした一連の作品、また第108回直木賞を受賞した古書店主だった出久根達郎の『佃島ふたり書房』などがあります。最近では三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖』が話題となり、KADOKAWAと講談社の二社よりコミックが刊行されています。2013年にはテレビドラマ化もされました。このシリーズは現在5巻まで刊行されています。

この本の著者、野呂邦暢は1937年9月20日長崎市で生まれました。1966年に「或る男の故郷」で第21回文學界新人賞佳作、1974年に『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞しました。
愛についてのデッサン』は雑誌『野性時代』に1978年7月号から12月号まで6回にわたって連載され、翌1979年7月に角川書店より刊行されました。本書の内容については、カバーに以下のように記されています。
「佐古啓介は東京の中央線で小さな古本屋を営む25歳の青年である。
ある日、美貌の人妻望月洋子の訪問を受けた啓介は、亡父の郷里へと旅立つ。死後にわかに評価され始めた長崎の詩人伊集院悟の詩集『燃える薔薇』の肉筆原稿を地元の蒐集家から入手するために。
その前年、伊集院は五島灘の落日の眺望が美しい崖上から恋人と逢っている時転落死していた。啓介はやがて、夭折した放蕩無頼の詩人の愛と真実がその肉筆稿の中に隠されていることを知った・・・。
この長編は六つの連作からなる。各篇とも詩作品ないし詩集がモチーフとなり、長崎、直江津、神戸、出雲、秋田、再び長崎といった土地へ出かけ、ある いはそうすることを夢想する。(以下略)」

カバーにもあるとおり、文中には詩作品がよく出てきます。書名にもなっている『愛についてのデッサン』は丸山豊の詩集で、1965年に国文社より刊行されています。この詩集は当館では所蔵していませんが、『丸山豊詩集(日本現代詩文庫22)』に「詩集『愛についてのデッサン』より」というかたちで一部が収録されています。
第3話には安西均の『葉の桜』が出てきます。1961年に昭森社から刊行されました。こちらも原本は所蔵していませんが、『安西均全詩集』に収録されています。ここには安西均の友人だったという設定で元流行作家の蟹江松男が登場します。その場面が「店に足を踏み入れて本棚を一瞥するときの目付は鋭かった。本を読むのが生活の一部になっている者だけが持っている目の光である」と書かれています。当館の利用者の中にもこういう目の光を持った方がおられるかもしれません。『野呂邦暢作品集』の巻末年表によれば、野呂自身もかなりの読書家であったことがわかります。
野呂はあとがきに「古本屋の主人、それも老人でなく若い男を主人公にした小説を書いてみたいと前から考えていた」と記しています。野呂は一時東京に住んでいたことがありました。そのころ古本屋によく通っていたようで、その中に日本文学専門の山王書房がありました。当時のことは「山王書房店主」(『小さな町にて』収録)に描かれています。また、店主関口良雄は文人たちの交流が多く、その遺稿集『昔日の客』に野呂も登場しています。
なお沢木耕太郎も山王書房の客のひとりであり、「ぼくも散歩と古本がすき」(『バーボン・ストリート』に収録)に、野呂と関口良雄について自身のことを含め記述しています。

野呂は同郷の詩人である伊東静雄の小論も書いています(『小さな町にて』収録)。伊東静雄は、1906(明治39)年諫早に生まれました。京都大学卒業後、大阪府立住吉中学校に就職し、戦後は阿倍野高校に勤務した大阪に縁の深い詩人でもあります。作品は、岩波文庫『伊東静雄詩集』や『定本伊東静雄全集』などで読むことができます。

『愛についてのデッサン』は角川書店刊行後、長らく絶版になっていましたが、2006年にみすず書房より佐藤正午の解説付きで復刊されました。当館では角川書店版のみを所蔵しています。

野呂邦暢は『愛についてのデッサン』刊行の翌年、1980年に心筋梗塞により42歳の若さで急逝しました。命日には菖蒲忌が営まれています。(文中敬称略)

 【ツンドク】

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