平成15年度 大阪府立中之島図書館特別展示
水の都・大阪道頓堀 特別展示会
平成15年10月12日(日)〜10月26日(日)


道頓堀展ロゴ
〜描かれた なにわの華〜

5 近代の道頓堀




「道頓堀角劇場繁栄之図」
41「道頓堀角劇場繁栄之図」長谷川貞信画
  明治17(1884)
「大阪けんぶつ」明治28(1895)
50「大阪けんぶつ」明治28(1895)
劇場の近代化


 明治17年(1884)、当時東京にいて、角座の仕打(興業主)和田清七から帰阪を要請された市川右団次は東京のような立派な劇場が大阪には少ないことを指摘し、その建設を条件に帰阪を承諾した。それにより角座は当時最先端の設備を誇った東京の新富座を模して、西洋風の豪華な建築に改築され、3月17日に盛大な披露式が行なわれた。このとき売店でははじめてアイスクリームを販売したという。一人前5銭という高価なものであった。
 一方、中座では同年、電灯が設置される。これは、千日前竹林寺に発電機を据え付け、そこから送電するものであった。その点灯を見るために毎夕多くの人が集まったという。


松竹資本の進出


 明治後期、京都出身の白井松次郎、大谷竹次郎の兄弟が起こした松竹合名会社(後の松竹株式会社)が道頓堀に進出する。松竹は明治41年(1908)の朝日座を皮切りに次々と道頓堀の劇場を経営下に収め、それまでは別々の仕打により運営されていた各劇場が松竹の旗のもとに統一して経営されるようになった。松竹は初世中村雁治郎を看板俳優に擁し、その黄金時代とともに道頓堀を席巻した。また一方で、劇場の経営を近代化し、幕間の短縮や二部式興行、入場料の明確化などの改革をおこなったため、芝居茶屋は次第に数を減らしていった。

「(商工技芸)浪花の魁」
44「(商工技芸)浪花の魁」明治15(1882)


松竹座の誕生


 五座の櫓を誇る道頓堀に、大正12年(1923)、もうひとつの劇場が開場した。大阪で初めて松竹が自ら建てた松竹座である。ネオ・ルネッサンス式のファサードも荘厳な本格的西洋建築で、ここでは洋画優秀作品の封切を中心に、バレエや音楽などのアトラクションもおこなう新しい営業形態をとった。海外の舞踊団などもしばしばその舞台を踏んだ。



6 爛熟する文化・多様化する風俗




 明治以降に興ったさまざまな芸能が芝居の聖地・道頓堀に続々と進出する。新派劇・喜劇・映画・音楽・舞踊など様々な出し物が日夜上演され、道頓堀はあたかも文化のるつぼのごとき様相を呈する。やがて昭和7年(1932)、千日前に歌舞伎座ができてからは、歌舞伎の大芝居はそちらへ移り、道頓堀の劇場は喜劇や新派の軽演劇などを中心に上演するようになった。


新派劇


 明治20年代、新町の高島座で旗揚げした角藤定憲一座や堺の卯之日座で旗揚げした川上音二郎一座などの壮士劇が道頓堀に進出した。さらに角藤定憲から分かれた高田実率いる成美団が明治29年(1896)角座で旗揚げする。成美団は明治末期から大正初期まで角座、朝日座を中心に活動し、演目も壮士芝居的なものから文芸的なものへと高め、関西新派の基礎を築いた。


連鎖劇


 連鎖劇とは、舞台劇と映画とを組み合わせた出し物で、大正年間に山崎長之輔率いる山長一座が大人気となった。そのため角座では平土間のマス席をすべて椅子席に入れ替え、さらに戎橋南詰西側(後の松竹座の位置)に仮設の切符売場を設置して対応するほどであった。


新国劇


 大正6年(1917)旗揚げした沢田正二郎一座が、従来の新派劇とは異なる剣劇的な要素を取り入れた芝居を始めた。主に弁天座を根拠にして活動した。


映画


 明治44年(1911)、朝日座が道頓堀で最初に映画上演中心の劇場に転向した。そこでは主に邦画の封切作品を扱い、遅れて開場した松竹座は洋画封切館として芸術的作品を上映した。昭和5年(1930)映画館転向の弁天座は洋画の活劇的なものを中心に上映した。


レビュー


 松竹は、大正2年(1913)発足し当時話題となっていた宝塚少女歌劇団を意識して、松竹楽劇部(のちのOSK)を組織し、大正12年、松竹座開場記念式典に合わせて第1回公演「アルルの女」を上演した。以後、昭和9年(1934)に大阪劇場に移るまで、松竹座を本拠地とした。


喜劇


 曾我廼家五郎、十郎による曾我廼家兄弟劇が明治37年(1904)浪花座で旗揚げ公演を行った。初世渋谷天外の「楽天会」、志賀廼家淡海の「淡海劇」などがこれに続き、これら関西独特の喜劇が人気を博した。さらに昭和3年(1928)には、曾我廼家十郎一門の曾我廼家十吾、二世渋谷天外による松竹家庭劇が旗揚げした。後の昭和23年(1948)、二世天外が中座で旗揚げした松竹新喜劇は藤山寛美という大スターを生んだ。


文楽


 道頓堀の人形浄瑠璃は、明和年間の竹本・豊竹両座の退転以来常設の小屋はなく、松島、のちに御霊神社内に本拠を置く文楽座の公演が時折かかる程度であったが、大正15年(1926)御霊文楽座が焼失したため、翌年から昭和5年(1930)に四ツ橋文楽座ができるまで弁天座を仮の本拠地として興行された。文楽が本格的に道頓堀に帰ってくるのは、戦後昭和31年(1956)の道頓堀文楽座(朝日座)の開場を待たなくてはならない(昭和59年国立文楽劇場への移転により閉場)。この道頓堀文楽座は、弁天座の跡に建設された。


道頓堀展(7−9)