平成15年度 大阪府立中之島図書館特別展示
水の都・大阪道頓堀 特別展示会
平成15年10月12日(日)〜10月26日(日)

最終更新:2004年12月4日

道頓堀展ロゴ
〜描かれた なにわの華〜

7 赤い灯、青い灯の街




パウリスタ


 大正2年(1913)浪花座の東隣にできたカフェー・パウリスタは今でいう喫茶店で、ブラジル政府から宣伝のため無償で送られた豆を用い、廉価でコーヒーを飲ませた。


キャバレー・ド・パノン


 中座の向かいにできた別名「旗のバー」と呼ばれるこの店は、芸術家や文士が集まるサロン的雰囲気のカフェーで、足立源一郎や宇野浩二らがここに集ったことは有名である。


大カフェーの時代


 一方で、飲食のみならず、女給と呼ばれる女性店員による接待を主な売り物とする店が出現した。
 昭和2年(1927)天神橋で成功した「赤玉食堂」が中座の隣に出店し、「カフェー赤玉」として成功をおさめた。続いて、丸玉・ユニオンといったいわゆる大カフェーが続々と誕生した。赤玉では、営業中でも女給に客との外出をさせるなどの新しい経営法で話題を呼び、それまでの芸妓に代わり、女給が通りを闊歩する新しい風景を呈した。
 赤い灯、青い灯のネオンサインは不夜城のごとく輝き、店々から聞こえるジャズの音色に、モダニズムを謳歌する人々が行き来する。「なんでカフェーが忘らりょか」(『道頓堀行進曲』作詞:日比繁治郎、作曲:塩尻精八)と歌われたのは昭和3年(1928)のことである。この時期、道頓堀は最も華やかな時代を迎えた。



8 戦争と戦後の道頓堀




五座焼亡と復興


 戦争は歓楽街である道頓堀に暗い影を落とし、昭和19年(1944)3月5日には当局の通告のもとに中座・角座が休場を余儀なくされ、茶屋も疎開するなど、道頓堀は文字通り灯が消えたようになった。そして翌20年3月13日夜の空襲で松竹座を除く全劇場が焼失する。
 敗戦直後の不幸な時代を乗り越えると、道頓堀は再び灯りを取り戻した。昭和21年の浪花座、22年の角座、23年の中座と次々と復興する。しかし戦後の上方歌舞伎界は、相次ぐ名優の死や、庇護者である白井松次郎・松竹会長の死、また役者の東京移住といった状況の変化により凋落傾向が指摘されるようになる。
 古典芸能自体の衰勢という時代の流れもあり、当時上方演芸の中心的存在となっていた角座が昭和59年(1984)で休場し、映画館を中心としたテナントビル(KADOZAビル)に生まれ変わるに至った。



9 平成の道頓堀、そして未来へ




あいつぐ閉館


 昭和32年(1957)の全面改築以来、往時の劇場建築を髣髴とさせる姿で存在感を放っていた中座が、平成11年閉館した。さらに追いうちをかけるように3年後の平成14年、解体工事中の現場から出火し、全焼するという事態となった。また浪花座も同年閉館し、現在道頓堀で昔日の芝居町の面影を残すのは松竹座(後述)と映画館の角座、道頓堀東映のみとなっている。


松竹座のリニューアルオープン


 戦後は一貫して映画館であった松竹座が、平成9年、新たに演劇専門劇場としてリニューアルオープンした。モダンなファサードのみを残して内部を大々的に改装し、上方歌舞伎をはじめとした演劇全般の殿堂となることが期待されている。


これからの道頓堀


 一方で、飲食店の表玄関などに見られるパワフルな巨大看板文化が注目されるなど、近年ではミナミの中心街のにぎわしさを新たな方向に見出している。今後も道頓堀川の浄化事業や、川を中心とした街並みの再開発、戎橋の架け替えなどが計画されており、道頓堀は、ハレの町の華やかさのある、人々が集う街としてのさらなる発展が期待されている。


道頓堀展(資料一覧)