「はらっぱ」 No.38 子どものレファレンスについて考える:レファレンス未然から
元八幡市立図書館長・京都外国語大学非常勤講師
出口宏子
1 はじめに
公共図書館で30年、児童サービスを担当した経験で言うと、子どものレファレンスは、直接子どもが司書に依頼する一般的なレファレンスはもちろんだが、絵本の読み聞かせをしていたり、雑談をしたりしている中で、「それ、どういうこと?」とか「これ、どうしたらいい?」からレファレンスに繋がることがある。
後者は、何らかの理由で、もともと子どもに内在していた疑問や拘りが、司書と何かしらコミュニケーションをとっている時に、生まれるレファレンスなのである。宿題の調べ学習より、むしろこちらの方が多かったように思う。図書館の司書にとってレファレンスは図書館サービスの中でも要になるサービスなのに、子どもたちには意外と認知されていない。それが、読み聞かせや雑談の中で出てきた疑問について、一緒に調べる経験をすると、その子の「知りたい」欲求が堰を切ったように溢れてくることや、「あの人に聞けばええねん。探してくれるから」と、友達に教えてくれている姿もよく目にするようになる。また、その内在する疑問が、その子どもの未来をも左右してしまうことも知った。司書として、専門職として関わることで、こんなに冥利に尽きることはないのだ。ここに、大人とは違う子どものレファレンスには、もう一つの意味があるように思う。
子どものレファレンスについて考える時、こういう内在するレファレンス未然の疑問や拘りを引き出し、レファレンスに仕立てていくことも児童サービスを担当する司書には必要なのではないだろうか。ここでは事例を挙げつつ、その過程を紹介していきたいと思う。
2 インタビュー力だけではない子どものレファレンスに必要なもの・・・レファレンス未然
その中学生は、学校には行けなかった。行きたいと思っているのだろうことは想像できた。しかし、家庭の事情、彼女の事情により行けなかったのである。そして、彼女は毎日開館と同時に図書館にやって来て、多くの子どもたちが来る前には図書館をあとにした。幼いころからよく知っており、来ると必ず「若おかみシリーズ」(令丈ヒロコ/著 講談社)を、司書からのコンタクトを一切遮断し、もくもくと読み始めるのだ。中学卒業間近なある日、「学校就職(学校斡旋就職)で働くからもう来ない」旨を告げた。「どんな仕事?」と聞くと、居酒屋のランチの手伝いだと言う。釈然としない私は、「高校に行く気はないの?」と聞くと、「私なんか無理に決まってる」と言うので、定時制の高校があること、そこでは年齢に関係なく働きながら学んでいる人がいることを告げると、定時制高校がどんなところか、近くではどこにあるのか、どうすれば入学できるのかを次々に質問してくるので、資料を出す。するとみるみる表情が明るくなっていく。そして彼女はみごとに定時制高校入学を実現し卒業した。そして今、某有名旅館で働いている(彼女の読書はここに繋がっていたのだ)。
幼いころから図書館で過ごすことの多かった彼女をよく知っていたこと、もくもくと読書する姿に何かしら司書としてのアンテナが彼女に向っていたことから、彼女の中に内在していたレファレンスを引き出すことができたのだろう。
3 常に子どもの近くにいることの大切さ
自分が知りたいことがあってもうまく言葉で表現することは大人でも難しい。しかし、子どもの場合、自分自身が知りたいと内在する疑問や拘りを認知できていないことがある。それに、司書が気づき、課題にして一緒に調べるまで付き添う必要があるのではないか。
毎日「本読んで」と図書館にやって来る小学校1年生の女の子がいた。彼女の気が済むまで本を読む毎日だった。時には彼女の「あのお花なあに?」から、図書館の窓の外の「おしろいばな」の遊び方を本で一緒に調べて、一緒に遊ぶ。そうするうちに、うすうす彼女の置かれている家庭環境があまり思わしくないことに気づく。そして夏休みのある日、「私、お腹すいてる。昨日の昼も晩も今日の朝も食べてない」と訴えた。私自身忸怩たる思いから、「お母さんが作ってくれないなら、自分で作ったらどう?」と話すと、「私でも作れるお料理の本ってある?」というので、『平野レミのおりょうりブック ひもほうちょうもつかわない』(平野レミ/文・和田唱/絵・和田率/絵 福音館書店)を出し読んで聞かせた。すると、本当に自分で自分の食事を作り、私のためにとすこし焦げが目立つ卵焼きをつくって持ってきてくれた。後には妹の遠足のお弁当まで作れるようになっていった。それは自信につながり「私、中学校には行けないと思ってた。お弁当無いから。でも大丈夫やわ。それで中学校行って保育士になるねん。」と未来のことも語りだしたのだ。これが、いかに彼女の生活を一変させたかはお分かりだと思う。どんな難しい課題が生じても、図書館は課題解決できる場所であること、司書はその助けをしてくれることを、身をもって知ることは、彼女が大人になった今もしっかりと根付いている。
ここで大切なことは、「児童サービスの担当司書は常に子どもの近くにいる」ことであり、しっかりと子どもにアンテナを張っておくことなのだ。子どもは、うまく言葉で表現できないだけではない、言葉を発することさえ難しいのだ。レファレンスに仕立てていくと言ったらよいのだろうか。そうすることで、図書館がどういう所で、司書はどういう人たちなのかを、子どもの内から体験してもらうのである。
4 子どものレファレンスのもう1つの意味・・・知る喜び
子どもが持ち込む課題に答えるため本を探していると、思わぬ方向に進んでいくことがある。ある冬の日一度にたくさんの子どもが、学校の宿題で「タンポポの冬越し」を調べに来た。「タンポポなら、図書館の前庭にいっぱい生えているから見てきたら?」という私の声は、答えさえ分かる本があればいいという子どもにとって、興味がなさそうだった。けれども、前からお母さんとよく図書館に来ていた2人の女の子は、「本当?行ってくる」と飛び出していった。図書館に残った子どもたちの対応がひと段落してふと外を見ると、2人は地面にへばりついて観察している。様子を見に行くと、鼻を真っ赤にして「おばちゃん!タンポポぺっちゃんこ!なんでぺっちゃんこ?」と言うので、「じゃあ、中で調べてみよう」と中で何冊かを手渡すと、私の手から本を奪い、もう私の存在など目にも入らず一心に読みふけっている。しばらくして、1人は「本ってすごいね!分かっちゃった!」と、もう1人は「タンポポはかしこい!これ、借りてお母さんに教えてあげる!」と嬉しそうに帰って行った。そして、次の日から毎日葉っぱ1枚を持って、「ねえ、これ何の葉っぱ?」とやって来るようになる。そうして、図書館の司書は、この2人に戦々恐々とさせられることになる。知りたいスイッチが入ってしまい、知らないことを楽しみ、知ることを喜ぶようになっていく。
大人は経験値で分かることがあるが、子どもは経験値が少ない分、喜びもひとしおなのだろう。そして、子どもの年齢が下がれば下がるほど当然経験値が少なくなることから、子どもたちが知らないことを知った時の驚きや喜びは、さらに大きくなる。それが、成長する過程でどんな影響を与えるだろう。あの特別嬉しそうな表情は、レイチェル・カーソンが言う、まさに「センス・オブ・ワンダー」なのだろう。
5 子どものレファレンスに答える
子どものレファレンスの具体的な対応については、『はらっぱNo.28』で杉山きく子さんが詳しく書いて下さっているので、ここでは少し視点を変えて考えてみたい。
図書館は、子どもの「センス・オブ・ワンダー」に答える場所であるが、同時に子どもの「センス・オブ・ワンダー」を育てる場所でもある。「不思議」に気づかせてあげて、知る喜びを経験させてあげる場所なのだ。
子どものレファレンスに答えるためには、児童サービスの担当司書自身の在り様が大切だと思う。レイチェル・カーソンが、甥っ子のロジャーに向き合ったように、司書も子どもに向き合うことが大切なのではないだろうか。大人が「センス・オブ・ワンダー」に向き合うという事だ。司書自身も、不思議なものに触れたとき「これはなんだろう」、知らなかったことを知ったとき「おもしろい!楽しい!」と素直に思えることだ。それを子どもはしっかり感じ取るのだと思うのだ。それは、子どもとの共感に繋がる。そして後に信頼につながるのではないだろうか。そして、知らないことや分からないことがあったら「図書館に行けばいい。図書館の人に聞けばいい 」に繋がるのだと思う。
子どものレファレンスは、誠実に答える事に尽きるが、それだけで終わらせてはいけない。彼らが成長し大人になっても、「知りたいことがあれば図書館に行けばいい」をいかに根付かせるかという事を意識し、日常のなかで「センス・オブ・ワンダー」に子ども自身が気づき、司書と一緒に書架を周り、「知ること」の喜びや楽しさを共有する事が大切であると考える。
もうひとつ、児童サービスの担当司書は、常に子どもの近くにいて、子ども一人一人にアンテナを張っておくことが必要だ。そして、子どももまた、司書の顔をよく知っていて、その距離が常に近くあるべきだ。しかし、そうはいっても現状は図書館の中で、司書も2,3年で異動してしまうのが一般的である。それでは、これを実現するのは難しい。その後、また児童サービスに戻ってきても、子どもが覚えていてくれる保障はない。「子どもの読書活動推進」というのならば、そろそろ専門職としての児童サービス担当司書が必要なのではないだろうか。子どもの本の専門知識、子どもについての専門知識を身につけ、そしてその図書館における児童サービスの要となれる人がどの図書館にも必要なのではないのだろうか。
そうすることで、初めてこれらがどこの図書館でも実現できるのだと考える。