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【資料展示】幻の児童雑誌『カシコイ』 ~学年誌が描いた子ども文化~ 解説

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年4月9日更新

はじめに

 戦前・戦後と長期にわたり、継続して出版され続けてきた雑誌に、学年誌があります。大衆誌とは異なり、学習・教育を前面に押し出して教育界・家庭からも支持され、部数を伸ばして児童出版文化の一翼を担ってきました。
 小学館が1922(大正11)年に学年誌を創刊すると、集英社、学習研究社、講談社などの出版社が続き、この分野でもよく知られるようになりました。他にも歴史に埋もれてはいるものの、確かな輝きを放っていた雑誌があります。それは幻の雑誌と言われ、近年発見された『カシコイ』(精文館)です。

 『カシコイ』の創刊は1932(昭和7)年。当時、小学館の学年誌の総発行部数は409万部とも言われています。同誌は、確固たる地位を築いていた巨人に立ち向かい、魅力ある童謡・幼年童話・童画を掲載することで独自性を発揮しました。
 掲載作家・作品には、小川未明、浜田広介、坪田譲治、北原白秋、新美南吉、初山滋など、著名な作家が並びます。児童文学史上、極めて意義ある雑誌といえますが、これまでその原本は殆ど確認されておらず、全貌をつかむことができませんでした。しかし、このほど、版元の関係者の自宅から大量の原本が原画とともに発見され、大きな話題となりました。

 本展示は、版元・精文館のご遺族の協力のもと、発見された同誌の原画をご紹介するものです。あわせて、戦前戦後に出版された数々の学年誌の系譜をたどりつつ、その歩みの一端に目を向けることで、学年誌が描いてきた子ども文化に触れていただきたいと思います。

大阪府立中央図書館 国際児童文学館

『カシコイ』について

 1932(昭和7)年に精文館により創刊された学年雑誌。教科書的な内容は少なく、童謡・童話・童画・漫画が展開する、美しく面白い、創意工夫に満ちた雑誌です。
 『カシコイ』には、浜田広介が童話顧問、童謡顧問は北原白秋、童画顧問には初山滋と、一流の作家陣が集っていたことも特徴で、浜田広介の童話「おにのさうだん」(「泣いた赤おに」の初出)や当時はまだ無名であった新美南吉の童話「アメダマ」を掲載するなど(掲載号は当館未所蔵)、後世に名を残す作品の初出誌でもあります。

精文館について

 1914(大正3)年に、東京の神保町で創業した出版社。創業者の北村宇之松が経営、従兄弟である藤本卯一が編集を担当し、学習参考書や実用書のほかに、『カシコイ一年小学生』と『カシコイ二年小学生』のふたつを同時出版しました。
 精文館は太平洋戦争後も北村氏が亡くなる1965(昭和40)年まで参考書などの出版を続けますが、『カシコイ』がいつまで続いたのかは不明であり、児童雑誌の歴史から忘れ去られることになりました。

『カシコイ』を描いた童画家たち

越智はじめ(おち・はじめ) 【生没年不明】

 昭和初期に活躍した童画家。戦後は不明。金井信生堂から出版された絵本『汽車』や、東京社の『コドモノクニ』第8巻第12号~第13巻第9号の間で童画を描く。1932(昭和7)年には松山文雄や前島トモらの若手童画家と一緒に「新ニッポン童画会」を設立する。

池上重雄(いけがみ・しげお) 【生没年不明】

 『カシコイ』に集った童画作家のなかでは異色の存在であり、催事のポスターや企業の広告などを描く商業美術家に属する人物。本誌の表紙を描く藤澤龍雄らとともに、1926(大正15)年に浜田増治を中心とした「商業美術家協会」を結成するが、後に枝分かれして「実用版画美術協会」を設立する。商業美術における人物画は写実的なものが多いが、本誌で描く池上重雄の絵はデフォルメされた人物画でありながら小物が細かく描かれている。

鈴木寿雄(すずき・としお) 【1904(明治37) - 1975(昭和50)年】

 東京・浅草に生まれる。実兄は日本画家の鈴木朱雀。小学校卒業後は赤本絵本の挿絵画工として仕事を始め、やがて筆力を認められて『コドモノクニ』や『キンダーブック』などにも執筆。武井武雄らと「日本童画家協会」を設立する。林義雄、黒崎義介らとともに童画第二世代と呼ばれ、芸術的ではあるが、その意が子どもたちにこそ伝わるような作品を描くことを目標とした。

田原利一(たはら・としかず/りいち) 【生没年不明】

戦前は児童雑誌『コドモノクニ』で童画や綴じ込みの漫画を描き、戦時中は統制下の中で単行本を数冊出版する。戦争が終わると児童向け読み物の挿絵を描くことが増え、活躍の場が広がった。

初山滋(はつやま・しげる) 【1897(明治30)- 1973(昭和48)年】

 東京・浅草出身。本名は繁蔵。10歳で狩野派の荒木探令に、その後井川洗がい(がんだれに圭の漢字)に風俗画を学び、1915(大正4)年、巽画会に出展して銀賞を受賞。翌年『少年倶楽部』の挿絵を手がけ、1919(大正8)年には『おとぎの世界』の中心的画家となり、童画家としての地位を確立。“古倫不子(ころんぶす)”の名前で詩作をし、1967(昭和42)年には絵本『もず』を出版、国際アンデルセン賞国内賞を受賞。

黒崎義介(くろさき・よしすけ) 【1905(明治38) - 1984(昭和59)年】

 長崎県平戸市に生まれる。中学校を途中で退学し、上京してからは川端画学校で本格的に絵を学ぶ。22歳の時に中央美術展に『鞠つき』が入選。後に、新ニッポン童画会に参加して『コドモノクニ』『キンダーブック』など童画の檜舞台で活躍する。戦時中は童画を用いたルポルタージュも行い、戦後は武井武雄らと第2次日本童画家協会を興す。林義雄・鈴木寿雄とならんで、童画第二世代の代表的な存在。

前島トモ(まえしま・とも) 【1904(明治37) - 1994(平成6)年】

 茨城県出身の童画家。日本画も描く。女子美術学校(現・女子美術大学)在学中に清水良雄の推薦で『赤い鳥』の挿絵を描き始め、自由詩と投稿欄を担当する。『コドモノクニ』でも活躍。1932(昭和7)年、夫であるプロレタリア美術運動の画家、松山文雄らと新ニッポン童画会を結成。戦後は奥村土牛塾に学び、日本画を制作。

 

学年誌とは その歴史とあゆみ

 明治後期から大正期にかけて、初等・中等教育の普及により読書人口が増大し、出版・雑誌文化が著しく隆盛していきました。児童雑誌の分野でも「少年」「少女」「幼年」など、年齢別や性別の雑誌が数多く発行され始めます。
 1918(大正7)年に子どものための芸術的な童話・童謡をめざした『赤い鳥』[1]が創刊されると、『金の船』や『おとぎの世界』など影響を受けた児童向け雑誌が次々と創刊されます。また、1922(大正11)年にはカラーで個性豊かな童画を掲載した絵雑誌『コドモノクニ』が出るなど、児童雑誌の文化が花開いていきました。

 一方で、1907(明治40)年に義務教育が6年に延長され、1912(明治45)年に就学率が98%に到達すると、中等学校への進学率も上昇し、大正期には研究社の『五六年の小学生』[2]など受験雑誌が相次いで創刊されます。大正自由教育の思潮や家庭生活を通しての教育も必要とされる中、従来の文学や娯楽中心の大衆的な児童雑誌だけではなく、学習雑誌への需要も高まっていきました。
 その中で、小学館の創業者・相賀武夫は「教科書の副読本、補充読本として、おもしろく読んでいるうちに学習の助けになるようなもの」を作りたいと考え、小学生を対象とした学年別学習雑誌(*以下、「学年誌」という。)を創刊します。学習記事を高等師範学校の付属小学校訓導らに依頼し、まず1922(大正11)年に『小学五年生』『小学六年生』[3]を創刊。1925(大正14)年には全学年の学年誌が出揃いました。
 読者の学習進度や成長発達段階に応じた学年誌は、学校教育の内容と密接に結びつき、児童生徒の学習を補助し、子どもにも親にも教師にも喜ばれるものとして受け入れられていきました。

 また1920~1930年代には「学習」「教育」「ユウトウ」「モハン」などの言葉と学年を組み合わせたタイトルの類似雑誌が続出します(一星社の『一年の小学生』~『三年の小学生』[8][11]、博英社の『尋常一年優等生』~『尋常三年優等生』[10][16]等)。戦後もこの流れは引き継がれ、各出版社から数多くの学年誌が創刊されました。

※解説に出てくる『資料名』の右肩にある[ ]内の数字は、資料展示一覧の通し番号です。

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