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本蔵 -知る司書ぞ知る(5号)

更新日:2024年1月5日


本との新たな出会いを願って、図書館で働く職員が新人からベテランまで交替でオススメ本を紹介します。大阪府立中央図書館の幅広い蔵書をお楽しみください。

2015年3月20日版

青年君主昭和天皇と元老西園寺』(永井和/著 京都大学学術出版会 2003.7)

昨年九月、宮内庁が昭和天皇の事蹟の公式記録である「昭和天皇実録」を公開し、大きな話題となりました。新聞報道を見る限り、関心の多くは先の大戦の前後に集中していたようです。それは、わが国の歴史上最も困難な時代にかぞえられる昭和戦前・戦中期において、政治の総攬者であった昭和天皇の動静が、政治史を考える上できわめて重要な意味を持つからでしょう。

今回紹介する本は、京都大学大学院教授の著者が、大正末期から昭和初期にかけての昭和天皇の動静を、一次史料を駆使して研究した学術書です。全七章から構成されていますが、それぞれ独立した学術論文で、主眼となるのは、著者自身が本書のあとがきでいうとおり第一章から第四章までです。
歴史に関心がある人でも、学術論文を読むのはなかなか敷居が高いものですが、本書は文体もこなれており、昭和戦前史にある程度の知識や関心があれば、読み進めることにそれほど困難はないと思います。
本書で使用されている一次史料は官僚や政治家の日記が中心で、主なものは『牧野伸顕日記』、『倉富勇三郎日記』、『原敬日記』、『大正デモクラシー期の政治:松本剛吉政治日誌』、『岡部長景日記』、『昭和初期の天皇と宮中:侍従次長河井弥八日記』などです。これらの史料を読み込み、事実を積み上げて昭和天皇とその側近たちの事蹟を解明していくプロセスは、研究者の営為の凄味を感じさせます。ことに『倉富勇三郎日記』は、著者が本書を執筆したときは翻刻公刊された資料がなく(現在は一部公刊されています)、その晦渋な筆跡や、しばしば一日分がノート数ページにも及ぶ圧倒的な記述量で有名な史料ですから、解読に費やされた時間は想像も及ばないでしょう。

本書の第一章は、1920(大正9)年3月の大正天皇の病状公表から始まり、天皇の執務困難により翌1921年11月に皇太子(のちの昭和天皇)が摂政に就くまでの、政治家や宮内官僚の動静を描いています。大正中期から末期にかけての皇太子を取り巻くさまざまな事件、すなわち婚約履行問題(いわゆる宮中某重大事件)や、英国留学問題などにも言及しながら、摂政設置について官僚や政治家が、いかにして万機親裁の天皇制政治を全うさせようとするのかが活写されます。それは、摂政設置の必要性がすなわち天皇の執務不能を意味するものである以上、摂政設置の発意から実現までの間の国家意思決定の正統性への疑義を霽らすことができないというアポリアを、時間と戦いながら解決しようとするものであり、著者のペンは宮内大臣牧野伸顕らの苦悩をスリリングに伝えています。

第二章では久邇宮朝融王の婚約解消問題を、第三章では西園寺公望が最後の元老となった経緯を、やはり前記の日記類の精読によって解明しています。そして第四章では、田中義一首相に対する昭和天皇の「叱責事件」を採りあげていますが、この章が本書最大の読みどころでしょう。

この第四章では、元陸軍大将で政友会総裁の田中義一が、1927(昭和2)年4月に首相に任じられてから、1928年6月に満洲で起こった張作霖爆殺事件を経て、1929年7月に辞任するまでの、昭和天皇、田中首相、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕らの動静が分析されています。田中首相の施政は、閣僚・官僚人事や外交方針などで昭和天皇との間にしばしば意見の齟齬を生じていたことが明らかにされ、青年君主として政治を総攬しようとする天皇が、内大臣の牧野に対し政治的意思の表明を試みる姿が描かれます。
しかし天皇に政治責任が及ぶことを畏れる西園寺や牧野は、そうした昭和天皇の意志を元老の意見として田中に伝えることで抑制的な大権運用を図りますが、「内閣成立後一年余りにして、昭和天皇の田中に対する不信感は簡単にぬぐいようのないほどに深まって」(本書P.287)しまっていました。そしてその「不信感」が頂点に達したのが、張作霖爆殺事件の処理問題です。
満洲の実質的支配者であった張作霖が殺害されたこの事件の真相は、事件後間もない時期に田中自身が天皇に対し、関東軍参謀の謀略であったことを報告し、厳正処分や真相公表の意志表示をしていました。しかしその処理方針に対して、陸軍はもとより閣僚からの反対をも受けた田中は、軽微な処分と真相隠蔽の方針に転じ、それを天皇に上奏したのです。このとき天皇は、以前の上奏との矛盾を厳しく追及し、『昭和天皇独白録』では「辞表を出してはどうか」とまで言ったとされています。
本書では、この事態に至るまでに西園寺や牧野が何を考えどう行動したのかを、彼らの間での認識の相違や誤解まで詳細に検討して間然するところがありません。明治憲法下において絶対的権力を持っていた天皇に対して、その権力の行使を抑制せしめることによって天皇の政治責任を回避させねばならないことは、元老たる西園寺や天皇側近である牧野らが逃れることのできないアポリアでしたが、結局この事件にあっては、昭和天皇の意志によって田中内閣が倒閣に追い込まれてしまったのです。天皇はそのことを後年、「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」(『昭和天皇独白録』)と語っています。

本書では学術上の論争における細部へのこだわりをも知ることができます。研究者同士の論争は、歴史というものが単なる事実の羅列ではなく、歴史家による選択と解釈によるものであって、「歴史とは歴史家と事実との相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」であるというE.H.カー(『歴史とは何か』清水幾太郎訳)のことばを首肯させてくれるでしょう。(文中敬称略)

【鰈】

大阪モノレール建設記録』(大阪府土木部、大阪高速鉄道株式会社/編 大阪府土木部 1990)

本書は、大阪モノレール事業の計画から設計、施工、そして官庁試験までをとりまとめた1冊です。技術基準の検討結果や駅舎の建築、車両設計はもちろん、開業区間の埋蔵文化財に関する調査や車両洗浄装置の走行速度など、大阪モノレールに関するあれこれが、写真や図とともに詳しく説明されています。

第1編第1章では、大阪でモノレールが開業された背景について述べています。1966年には、日本万国博覧会(1970年開催)における輸送対策として、モノレールが提唱されました。この1966年は、人形劇サンダーバードが日本でテレビ放映された年であり、太平洋と大西洋を結ぶモノレール事業の立ち上げにまつわるストーリーが第23話で展開されています(『サンダーバード・ファイナル』)。万博で実現したモノレールは会場内を周回するにとどまりましたが、その後も大阪府は、都心部への過度集中を脱し都市機能を分散させる必要があると検討を続けました(『モノレール関係資料』*にも、その過程が示されています)。
ついに1980年に第三セクターが設立され、1982年に事業の認可がおりた流れについては、本書で詳説されています。なお、世界のモノレールの歴史については、『モノレールと新交通システム』に簡潔にまとめられており、1932年大阪交通電気博覧会で公開された日本初のモノレールの写真も掲載されています。

ところで、大阪モノレールの本線と支線(彩都線)の分岐点をご覧になったことはおありでしょうか。万博記念公園駅では、いかにも重厚なレールそのものがするすると平行移動し、車両の行く先を本線または彩都線へ、まるで生き物のように振り分ける様子を見ることができます。この動くレールについて、本書では第2編第3章第4節「分岐装置」で紹介しています。レールは軌道桁と呼ばれ、その軌道桁自体を動かす形式として、大阪モノレールでは「関節式」「関節可とう式」を採用したとあります。図面では、複数の軌道桁を線状に繋ぎ、それぞれの桁を一定の角度で移動させることで、全体としてはなだらかなカーブの軌道が確保される機構が表されています。(「あっち向いてほい」をするとき の人差し指の動きを思い出していただくとよいかもしれません。)

軌道桁といえば、小説『いつか王子駅で』では、電車は単線という場合でも二本の線路を使用しているのに対して、モノレールは一本の軌道桁で車両を移動させる単軌鉄道であると確認したうえで、次のように述べられています。「純粋な単数を維持しつづけるモノレールにこそ孤高を唄う資格が備わっているわけで、ケーブルカーのようなアクロバットに流れることなく固いコンクリートと鋼鉄に支えられた軌道を走るモノレールの地に足のつかない孤絶ぶりは、いっそう凛々しくきわだっている」(22ページ)。そんな孤絶な宿命をもった乗り物も、この建設記録を読むことで、少し親しく感じることができるのではないでしょうか。

*の資料は館内利用のみです。
【む】

にじ』(新沢としひこ/詩 アスク・ミュージック 1996.11)

♪にわのシャベルがいちにちぬれて~♪という歌をご存知でしょうか?お子さんが、幼稚園や保育園などで覚えて歌っているのを聞かれた方や、つるの剛士さんがカバーされている歌を聞いた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

今回ご紹介する『にじ』は、この歌からできた絵本です。スケッチブック絵本シリーズという名の通り、ひもをほどいて、ページをめくると、あべ弘士さんのあたたかなイラストが迎えてくれます。

私とこの絵本との出会いは、作者の新沢としひこさんの講演会でした。大きなスクリーンに、あべ弘士さんの絵が映し出され、新沢さん自らギターの弾き語りをされる、という贅沢な出会いでした。私が、歌からイメージしていた絵とは違いましたが、そのギャップもまた楽しめました。みなさんなら、どんな絵をイメージされますか?

この歌は、もともと雑誌『音楽広場』(現在は『クーヨン』に改題)の今月のうたの中で紹介された歌で、作詞は新沢としひこさん、作曲は中川ひろたかさんです。このお二人は、教科書にも載った「世界中のこどもたちが」の作者です。この歌を、手話でチャレンジする学校などもあるそうで、当館の第1・3土曜日15時からの「楽しい手話」に参加してくれる子どもたちも、「手話でやったことある!」と教えてくれました。
今回の「にじ」を、手話でチャレンジされたい方は『歌でおぼえる手話ソングブック 2:きみとぼくのラララ』もどうぞ。

【コップポーン】

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