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本蔵 -知る司書ぞ知る(4号)

更新日:2024年1月5日


本との新たな出会いを願って、図書館で働く職員が新人からベテランまで交替でオススメ本を紹介します。大阪府立中央図書館の幅広い蔵書をお楽しみください。

2015年2月20日版

倶会一処:患者が綴る全生園の七十年』(多摩全生園患者自治会/編 一光社 1979.8)

多摩全生園の正式名称は国立療養所多摩全生園といいます。1909(明治42)年に開院したときは第一区連合府県立全生病院という名称で、当時の東京府ほか11県が共同で設置運営するハンセン病の医療施設でした。多摩全生園と同じ国立のハンセン病療養所は、13施設存在します。しかしこれらの施設がかつて、医療施設とは名ばかりで、その実態がハンセン病患者を強制的に終世隔離収容する施設であったことは、いまでは広く知られています。

当館の蔵書検索システムで一般図書を対象に「ハンセン病」という書名で検索すると、333件の資料が該当します。これらの資料のうち、1996年3月までに出版されたものはわずか18件に過ぎません。1996年4月から2001年5月までに出版されたものが40件です。ほとんどの資料は2001年6月以後に出版された、比較的新しい資料です。
1996年3月と2001年5月は、わが国のハンセン病問題を考える上で、きわめて大きな意味を持った時期です。前者は、1907(明治40)年に法律第11号「らい予防に関する件」として公布されて以来、改定を繰り返しながらも連綿と続いた「らい予防法」がおよそ90年の時を経て廃止されたときであり、後者は「らい予防法」廃止を受けて提起されたハンセン病国家賠償請求訴訟いわゆる熊本訴訟において、第一審の熊本地裁が違憲判決を下し、国が判決を受け入れて控訴を断念したときでした。
90年に及ぶハンセン病対策の誤りを国が全面的に認めた熊本訴訟のインパクトが、それ以後堰を切ったような関連資料出版の契機になったことは疑いありません。

今回採りあげる『倶会一処』(くえいっしょ)は、1979年の出版です。ハンセン病関連資料がまだあまり世に出ていない時期に、療養所とその患者の置かれた実態を、患者自身が開院以来の歴史をたどって綴ったもので、「まえがき」に「意に満たぬところが多いが、絶対に類書がなく、強烈に読者を刺しとおし、とらえるものがあるだろうと信じている」と記されているとおり、療養所の実態、患者の境遇を伝えた資料としてはフロントランナーの地位にあるでしょう。
ハンセン病患者がいかに苛酷な境遇に置かれていたのか、また国の政策の何が誤りであったのかは、らい予防法廃止や熊本地裁判決以後陸続と出版された資料において克明に知ることができます。瓜谷修治著『ヒイラギの檻』、藤野豊著『「いのち」の近代史』、熊本日日新聞社編『検証・ハンセン病史』などは、執筆者のハンセン病問題に対する憤りがペン先からほとばしるような迫力に満ちています。「患者狩り」「お召列車」「重監房」「強制断種」といったことばが繰り返され、そうしたことばが意味するハンセン病対策の実態が厳しく断罪されています。

それに比べると、『倶会一処』の患者自身による記述は、多くは実に淡々と事実を述べているにすぎません。それは事実を事実として述べるということが、この本の目的であったことによるのでしょう。「まえがき」に「この閉ざされた園の中で何が行われ、患者たちの日々がどのように過ぎたかを、この本は赤裸々に物語っている。われわれは施設当局者の患者処遇の過酷さや非人間性をも、患者内部の悪徳や恥部をもはばからずに書いた。それが何よりもまえに事実であったからである。事実というどうしようもない重い存在。事実ほど強いものはない。それを消し去ることは誰にもできない」と書かれているように。
しかし淡々とした筆致の中にこそ、患者たちのやるかたない憤懣と悲痛な慟哭を読み取らねばなりません。たとえば第4章の2「分教室と少年少女舎」では、成人患者から選ばれた寮父寮母と、幼い患者たちとの交流が綴られていますが、これを単に園の中での美談と読み過ごしてはいけません。強制断種によって子を持つことができなくなった成人患者が、幼い患者たちを実子のように慈しんだであろうこと、その悲哀に想いを寄せなければ、この本の意図するところを読み取ったことにはならないでしょう。
患者の苦悩と同時に、園の中で営まれていた豊潤な文学活動などの実態も興趣を添えます。患者たちが発行していた文芸雑誌の選者には正木不如丘、豊島与志雄、木下杢太郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳といった作家たちが名を連ねています。夭折した北條民雄も多摩全生園の入所患者でした。治療らしい治療も受けられないまま、多くの患者たちは文学活動に鬱屈をぶつけていたのです。

2003年11月、熊本県阿蘇郡の温泉地のホテルが、ハンセン病の元患者の宿泊を拒否するという事件が起こりました。ハンセン病対策に一大転換を画期した熊本の地で、違憲判決から1年半という時期に起こったこの事件は、らい予防法90年の歴史によって植えつけられたハンセン病患者や回復者に対する差別と偏見が、いかに根強いものであるかを痛感させられるものでした。この事件を思いだしつつ、本書の261ページの記述を引用してこの稿を閉じようと思います。
「偏見、差別に関する事例はこれに限らないが、一生を『公衆の衛生、安全のため』に閉じ込められてきた者たちにたいする、これが社会のむくい方として何の批判もないとすれば、この社会はまだ不治の段階にあるゆがんだ社会だといわなければならない」(文中敬称略)

【鰈】

登山の哲学  (NHK出版新書)』(竹内洋岳/著 NHK出版 2013.5)

本書の著者である竹内洋岳(たけうちひろたか)さんは、日本人で初めての「14サミッター」、即ち8000メートルを超える14座すべての山頂に立った、プロの登山家です。竹内さんは、幼い時から祖父に連れられてスキーをしており、高校・大学では山岳部に所属していました。大学の遠征でエベレストに行ったことがきっかけで、高所登山に目覚めます。登山用品店に就職してからも高所登山を続け、ついにはプロ宣言をして、14サミッターを目指すことになります。

冒頭は、ガッシャブルムII峰(8035m)の中腹で大雪崩に巻き込まれるシーンから始まります。死を覚悟した竹内さんですが、仲間に助けられます。当初は、プロとして自力下山できない悔しさから「助けなくていい、放っておいてくれ」といったことを叫んでいたのが、同じく雪崩に巻き込まれた仲間2人が、1人は死に、もう1人が行方不明であると知り、生かされた命を大切に思うようになり、再び登頂を目指すことを決意し、成功します。

本書の中で、日本で経験してきた組織登山と、「国際公募隊」による、個人の集まりの登山の違いに衝撃を受ける場面が印象的です。例えば、ベースキャンプの過ごし方は、日本の組織登山だと荷物の集積が最優先で、食事もゆっくりとれない状況ですが、公募隊では、ベースキャンプで過ごす時間そのものを楽しもうと、週末にはダンスパーティを開いたりするのです。チームワークの考え方も異なり、メンバーそれぞれが役割を果たすことがチームワークの基本である組織登山に対し、公募隊では個人がそれぞれの責任で、自らが登頂継続か、とどまるか、下山するかを判断し、メンバーはそれを尊重するのです。竹内さんは、この「国際公募隊」のように、個人がそれぞれ登りたいときに、登れるメンバーとチームを組んで登山するというスタイルが、日本でも新たな登山の世界を開くのではないかとみています。

ところで、山をテーマにした文学の中には『八甲田山死の彷徨』(新田次郎著)や『氷壁』(井上靖著)など、死や遭難を扱うものが多く、ニュース等でも、冬山や夏山での遭難というように、登山に対して重い印象を持たれがちです。しかし竹内さんは、登山は「想像のスポーツ」だとし、どのようなルートで登っていくか、どんな道具を使うかなど、事前に様々なことが想像できれば、それだけおもしろいといいます。登りたい山を決め、山に登り、生きて帰ってくるまでのすべてを楽しんでいるといえます。高所登山という、気温も低く酸素も薄い所へ、しかも何度も出かけるという、恐ろしくすごいことをしているようなのですが、それをことさら強調しない、ひょうひょうとした人柄がにじみ出ています。本書のタイトルについても、当初は「登山の哲学風味」くらいがいいのではと申し出たほどの慎ましさです。

竹内さんが14座に登頂する過程をより深く知るには、塩野米松さんの聞き語りによる本『初代竹内洋岳に聞く(ちくま文庫)』『登頂竹内洋岳』がありますので、こちらもご一読をお勧めします。8000メートルを超える山がどんなところか確認したい方は、もちろん自分で登ってみるのもいいですし、手始めに写真集を眺めるところから始めるのもいいでしょう。中央図書館では、山や登山に関する資料をまとめたリストを作成し、中央図書館HPで公開しています。以下を参考にしてみてください。

「写真で楽しむ山」(資料紹介>人文系資料室資料案内、2009年6月)

「山の本」(資料紹介>「としょかんせんなりびょうたん」平成19年度、2008年3月)

「書を捨てず、山へ行こう!」(資料紹介>資料展示一覧 平成18年度、2006年4月)

                                                                                                                              【福】

手漉和紙』(竹尾洋紙店/編 竹尾洋紙店 1969 館内利用のみ)

昨年2014年11月27日未明(日本時間)、パリで行われたユネスコ政府間委員会において、2009年に登録された島根県の石州半紙に、岐阜県の美濃紙と埼玉県の細川紙を追加登録する形で、日本の手漉和紙文化が「和紙日本の手漉和紙技術」として世界無形文化遺産に登録されることが決定しました。

和紙や手漉和紙についての資料は多数ありますが、以下で紹介するのは、和紙について文章や図版だけで説明している資料ではなく、様々な種類の和紙の現物そのものを収録した「紙譜」、または「和紙見本」といわれる資料です。これらには大きく2つの種類があり、1つは一定の形のサンプルを台紙に貼り付けたもの、もう1つは判型と同じ大きさのサンプルをそのまま束にして本の形に綴じ込んだものです。
実際に字や絵を書く/描くことはできませんが、モノとしての和紙の多様さを、風合いや手触りで感じることができるかと思います。

表題に掲げた『手漉和紙』*は紙の専門商社である竹尾洋紙店(現竹尾)の創立70周年記念として製作されたもので、日本全国の手漉和紙の見本208紙(28×40cm、綴込)(表記はサイズ(特記ない限り縦×横)、収録形式の順。以下同)が収録されています。

また、同社の創立80周年記念では、『世界の手漉紙1:China-8:Madagascar9:Spain-23:Australia』*として、世界の手漉紙167種のサンプル(直径14cmの円形、台紙貼付、欠あり)およびパピルス等6種(変形、袋入り)を収録した資料を刊行しています。このうち「1:China-8:Madagascar」には22種の日本の手漉和紙のサンプルを収録しています。

毎日新聞社は、1970年代に和紙についての大型の資料を刊行しています。

『手漉和紙 標本紙編上標本紙編下別冊解説書』*、は「標本紙編上」に全国の生漉紙200種、「標本紙編下」に加工紙(漉模様紙、和染紙、加工和紙、千代紙、型染紙)250種のサンプル(10×10cm、台紙貼付)が収録されています。
『日本の紙 標本紙編解説編』*も「標本紙編」に生漉紙64種、漉模様紙、和染紙、加工和紙、千代紙、型染紙86種のサンプル(10×10cm、台紙貼付)の他、原料の木皮などが収録されています。
『書の紙 手漉画仙紙と料紙 標本紙編解説編』*は「標本紙編」に、和紙及び料紙30種のサンプル(10×10cm、台紙貼付)、画仙紙110種のサンプル(31×23.5cm、綴込)を収録するほか、中国(含台湾)64種、韓国22種の紙のサンプル(10×10cm、台紙貼付)も収録しています。

元毎日新聞社の記者で、上記毎日新聞社発行図書の編纂にも関わり、その後は和紙の研究家として活動をしている久米康生による『手漉和紙 精髄ふるさとと歴史』*には大判(おおむね27×21.5cm、台紙貼付)の手漉和紙のサンプル100種が収録されています。

その他の資料としては、「下巻紙譜編」に手漉和紙35種、加工紙6種の計41種類のサンプル(16×10.5cm、台紙貼付)を収録した『書の和紙譜 上巻解説編下巻紙譜編』、千代紙なども含め48種類のサンプル(10×10cm、台紙貼付)を収録した『実物和紙手帖』*、少し古いですが戦前の王子製紙の工場で製造されていた半紙などのサンプル(23×16cm、綴込)を収録した『和紙見本』*などがあります。(文中敬称略)

*の資料は館内利用のみです。

【晩比瑠】

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