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第12回大阪資料・古典籍室小展示「当館初代館長今井貫一の事蹟 図書館ものがたりその3」

印刷用ページを表示する 掲載日:2007年12月28日更新

第12回大阪資料・古典籍室1小展示
平成9年7月1日~8月15日

「当館初代館長今井貫一の事蹟」展示外観

 当館初代館長今井貫一は明治3年10月24日、徳島県那賀郡羽ノ浦村に生まれた。18年大阪に在勤中の長兄を頼って上阪、勉学に励んだ。明治24年高等中学校一部文科に入学し、のち京都の第三高等学校となった同校を卒業、明治27年9月に東京帝国大学文科大学史学科に入学した。
 そこで今井家の養子となり入籍、名も貫一と改名したが、のち離籍、名前は復せず今井を名乗った。明治30年7月帝国大学を卒業、28才であった。
 明治30年8月北海道の函館中学の奉職、のち滋賀県第一中学校(彦根)に転じ教頭となり、さらに愛知県立第三中学校(津島)の創設に招かれ校長。なお、この時期発行の関西文庫協会機関紙『東壁』2号(明治34年7月31日)にはすでに入会者として「愛知県第二中学校(正しくは、第三)文学士」と名前を連ねている。
 明治33年2月住友男爵が大阪に図書館を寄贈すると申し出、その計画を知って大阪は自身の好学の地でありその文化興隆に微力をつくしたい、と考え、当時の岳父の友人であった菊地府知事にその意あるところを伝えて快諾を得た。明治36年4月大阪図書館長に任じられる。34才のことである。
 常安橋の仮居および松屋町の博物館の一室で図書を収集、目録の作成に励み、37年2月25日大阪図書館の開館式、3月1日開館となった。
 開館後しばらくして今井は人文会という名の文人の会合を開催、またそれに合わせて展覧会を開催するなど精力的に活動を開始した。そして『図書館雑誌』はじめ各誌に論考も発表していく。
 明治45年2月には、図書管理法研究のため欧米独に留学が決まり、約1年間、西洋の図書館に実情を学んできた。また図書館の研究会である近畿図書館倶楽部を大正2年9月に発会させ、3年6月には史談会、大正15年3月には、「大阪出版文化展覧会」の企画など、彼はいつもそうした会合の中心にいた。
 さらに大正7年のことだが、住友家史編纂事業を嘱託され、図書館開館から以降の活動まで大きな支援を得た住友家への報恩の意からも、その任にあたったが、この事業は以降ずっと気にかけ、病床についた昭和14年危篤の病床で、「あと2年でよいのだが」と語ったといわれる。
 大正10年6月には大阪市立阿波座図書館など創設されるが、これにも今井は尽力、欧州遊学の体験が生かされたかたちとなる。大正11年10月には図書館増築記念式典が開催され、図書館も大きくなり、資料の蒐集にとどまらず図書館の展示会や展示目録の刊行、資料の影印版の刊行や図書館編纂物の刊行まで、精力的に活動を繰り広げ、それは昭和8年9月30日の図書館長の退職まで続いていく。
 これより先の昭和3年5月20日、今井の在職25年記念会が開かれる。そこで、伊藤快彦画伯筆になる肖像油絵2枚が寄贈(1枚は、図書館に、1枚は、今井に)された。
 さて、図書館を退職した今井であったが、さきの住友家々史編纂に力をそそごうとするも大阪美術館の創立が持ち上がり創立委員に選ばれ、昭和10年11月、その健康を心配されながらも美術館館長に就任することとなった。しかしながら昭和13年3月から胃痛がひどく、病臥に伏し昭和14年2月には、美術館長を辞し顧問となり、ついに昭和15年4月18日午前5時30分、ふたたび立つことなく死去、19日告別式となった、法名嘯雲院忠恕大貫大居士。
 今井は図書館を含めて大阪文化活動の中心にいつもいた。 例えば明治42年9月4日発会の大阪人文会、参加者は、西村天囚、渡辺霞亭、磯野秋渚らで今井は会の座長をつとめた。この人文会ではその会合にあわせて展覧会を開催していった。
 展覧会への出品も、自身の交遊関係から、大阪だけでなく他の地方からも寄せられ盛会であった。それは、のちの近畿図書館倶楽部などにも引き継がれ、資料を紹介するという図書館展示の基礎をつくったともいえる。
 ちなみにこの人文会の活動は懐徳堂記念会の設立へとつながり広く大きく繋がっていった。
 図書館の場においても大正2年9月の近畿図書館倶楽部を設立した。発起人は新村出京都帝国大学附属図書館長、湯浅吉郎京都府立図書館長および今井貫一館長で、この時期まさに各図書館とも蔵書の構築に励むべきときにあたっていて、各図書館とも資料の蒐集にしのぎをけずった。古書肆鹿田松雲堂の書物をめぐって、一般の蔵書家ともども「暗闘」をくりひろげた、ということはよく知られている。
 大正13年11月10日の大阪図書館連盟主催「図書館週間」では開会の辞を述べ、そこで大阪図書館協会設立を提議し、創立調査委員として今井ら7名がえらばれ、理事長となり図書館活動について研究を積み重ねていくことになる。
 かれは大阪の文化活動としてはほかに、大正13年6月の第1回史談会がある。そして大正7年4月のその再興の会では、今井は長田富作(第2代館長)とともに委員となっている。
 これらの記事は永江多喜馬主宰「乃木宗」に掲載されたが、今井はこの会でも、講演や座談会の司会、麻田剛立、高橋東岡、間長崖ら「贈位奉告先賢祭」「愛日区内先賢225先生祭典」など先人の顕彰などにも尽力した。
 もうひとつ、出版界とのつながりの強さをしめすものとして、大正15年3月24日から大丸百貨店で開催された「大阪出版文化展覧会」がある。これは先の大阪図書館協会懇談会の席上で今井の指名により立った博多久吉大阪図書出版業組合組合長の提唱にはじまったが、この展覧会準備のため今井貫一、上松寅三は顧問となってちからを貸した。
 ちなみにこの展覧会の参考品蒐集と沿革史料の考証は、鹿田静七(3代)・文一郎(4代)・前田梅吉とともに今井は上松とともに顧問として協力している。
 また講演会についても相談を受け、今井や上松自ら講演を引き受け、田中周行、渡辺霞亭、吉沢義則の講演を実現させている。
 かれは自身でも精力的に著述を行い、また出版にも尽くした。昭和8年4月の『近畿善本図録』、8月の『正平版論語集解考』など、図書館の所蔵資料や展示資料を出版、その紹介にも努めた。
 今井貫一のモチーフを示すもののひとつとして、たとえば、昭和8年11月号の『上方』にでた「シーボルトの観た大阪銅吹所」があげられよう。それは大阪の地での、住友銅吹所と住友家、『鼓銅図録』という当時の銅吹所紹介の冊子、そして開館以降の住友家から当館への資料の寄贈、こうした繋がりは今井の関心の在り処をよく示したものということができると思う。
 またこれより先の昭和3年5月20日に開催された、今井館長在職25年記念会でかれはその記念の事業として問われたとき『石山本願寺日記』の記念出版を自ら希望している。
 自身の在職25年という記念会で、こうした得難い書物の出版を希望するというのもまた今井らしいところであろう。この記念会の講演にかけつけた本庄栄治郎・武田五一・内藤虎次郎・新村出らの存在もかれの交遊のひろさと深さとともに書物を通じての真摯な交遊というものをよく実感させてくれると思う。

展示資料

  1. 今井貫一写真 【館資料247】
  2. 『東壁』 2号 (中央図書館)【090-349】
  3. 開館当時の図書館の写真 2枚 【館資料299】
  4. 閲覧室日誌 【館資料98】
  5. 「献本願」 【館資料】
  6. 「大阪人文会の名簿」 一柳安次郎「漫録窓から」 【042-279】
  7. 近畿図書館協議会出席者記念撮影 大正7年10月14日 大阪朝日新聞
  8. 「愛日区内先賢祭典記念講演会」 【351-1927】
  9. 「摂政宮殿下御成婚に付贈位の御沙汰を蒙り給ひし郷土先賢略伝」 【館資料214】
  10. 図書館週間のしおり 【館資料100】
  11.  昭和初年ころの図書館写真 【館資料299】
     昭和2に増築された第3号書庫 【館資料249】
  12. 「大阪府立図書館長今井貫一君在職25年記念講演集」と呼びかけの趣意書(本書所収) 【天-806】
  13. 「石山本願寺日記」  大阪府立図書館長今井貫一君在職25年記念会刊  昭和5年   【136-83】
    記念会の記事 大阪朝日新聞 昭和2年7月26日
  14. 「論語善本書影」  大阪府立図書館編纂  貴重図書影本刊行会刊  昭和6年 【018-28】
  15. 「正平版論語集解」 正平版論語刊行会(大阪府立図書館内)刊  昭和8年 【184.3-92】