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第60回大阪資料・古典籍室小展示「大阪府立中之島図書館・増築設計者 住友臨時建築部技師長 日高胖(ゆたか)の足跡」

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更新日:2007年12月6日

第60回大阪資料・古典籍室1小展示
平成16年6月1日(火)~7月30日(金)

第60回小展示外観

明治41~42年の欧米出張旅行と大正の図書館増築

 中之島図書館は明治37年(1904)に開館し今年100周年を迎えた。創建当時の図書館は石造り3階建、総床面積824.4平方メートルの建物であった。住友家の寄付により建築され、設計は住友臨時建築部技師長の野口孫市、補佐したのは技師日高胖である。大正11年(1922)再び住友家の寄付により左右両翼棟が増築完成した。設計者は技師長日高胖であった。開館100周年を記念し中之島図書館の建築に重要な役割を果たした日高胖にスポットを当ててみた。


日高胖主要年譜  | 日高胖の思い出  |  野口孫市 |  小倉正恆 |  大正の図書館増築 
  絵葉書で辿る・日高胖の欧米出張旅行 | 展示資料 |  参考文献


(以下の各画像をクリックしますと、拡大画像がご覧になれます)

 
日高胖 明治41年ロンドンにて 創建当時の図書館   増築完成した図書館
日高胖 明治41年ロンドンにて 創建当時の図書館 増築完成した図書館

 


日高胖[明治8年(1875)~昭和27年(1952)]主要年譜

出来事
明治8年(1875)6月5日、幕府の旗本日高圭三郎為善の次男として東京に生まれた。長男は偉太郎という。父の圭三郎為善は天保4年(1834)10月20日、江戸に生まれた。万延元年(1860)の遺米使節、文久2年(1862)の遺欧使節団の一員として活躍した人物であった。維新後工部省、大蔵省・記録局に勤務した。大正8年(1919)4月7日、86歳で胖の家(東京府新宿内藤町)で亡くなった。
明治30年(1897)仙台の第二高等学校、工科を卒業。同期の卒業生は103人。同期の法科に中田薫、中川望、1年後輩には天沼俊一(建築史家)がいた。東京帝国大学工科大学造家学科に入学。
明治32年(1899)野口孫市(31歳)が逓信省から招かれる。小倉正恆(25歳)が山口県参事官から鈴木馬左也の推薦で住友に入る。
明治33年(1900)5月、住友本店に臨時建築部が発足。
7月、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業。同期卒業は3名。土屋純一、保岡勝也である。住友本店臨時建築部に入った。 明治32、33年頃、住友は伊庭貞剛総理事の元、広く有意の人材を集めていた。
 臨時建築部の部長植山俊平(32年6月入店)は日本銀行から、中田錦吉(後の住友総理事、33年8月入店)は東京控訴院から招かれた。胖の人生で2人の重要な人物、野口孫市と小倉正恆が住友に招かれたのも32年である。 9月、府立図書館起工。
11月、府立図書館建築工事に従事。
明治34年(1901)3月、辰野金吾、住友本店の建築顧問となる。
明治37年(1904)1月、大阪図書館竣工。外部壁面総花崗岩。3階建、書庫5層。
2月25日、中之島図書館(当時は大阪図書館)開館式典。
 ※大阪図書館の建築顧問は辰野金吾、工事監督は久保田小三郎。神本理髪店(大阪)を設計。
明治38年(1905)2月、長男輝誕生。
胖は田村慎三の三女止女(留女)と結婚。「止女」は、普段「光井」(「みつい」と読む)を使った。明治41、2年、胖が欧米から妻宛に送った絵葉書の名前は全て「光井」である。
4月16日、野口孫市の義父・文部大臣久保田譲が図書館を視察した。
明治41年(1908)7月、欧州に出張を命じられる。8月9日、大阪を出発。9月9日ロンドン着。欧州からアメリカに渡り帰朝したのは明治42年7月。この頃、胖は兵庫県武庫郡灘魚崎に住んでいた。胖は絵葉書の収集を趣味としていたようだ。この旅行中も絵葉書を沢山求めている。地図も好きであったようで大阪を始め日本各地、中国など様々なスケールの地図が残っている。
明治44年(1911)7月、茶臼山建築事務取扱所委員兼務(この建築事務所は住友茶臼山本邸建築のために設けられた)
10月31日、臨時建築部は住友総本店営繕課に変わる。
住友総本店営繕課建築係勤務となる。
茶臼山建築事務取扱所は委員長が小倉正恆、臨時建築部の技師長野口孫市、主任技師日高胖等が委員を命じられる。設計の大要は「日高胖が春翠の意を承けて八木甚兵衛と謀った。」(注1)
明治45年(1912)4月、住友銀行呉支店(日高胖設計)
大正4年(1915)1月、大阪倶楽部竣工(設計:野口孫市、長谷部鋭吉)大正11年7月焼失。10月26日、技師長野口孫市が逝去し、以降住友営繕の全責任を担うことになる。胖が設計に関係した住友茶臼山本邸の工事がほぼ完了。
大正5年(1916)富本憲吉を訪問。アルバムには「於法隆寺・富本邸」とある。
胖は陶芸が好きであった、晩年、鎌倉の自宅裏に窯を作り作陶に勤しんだ。美術関係の図録、図書の蒐集も多い。
富本憲吉は明治41年10月欧州へ出かけた。ロンドンでの滞在場所はSouth West のNo.26 Cathcartで胖と同じ住所である。富本によるとそこはミセス・シェファード未亡人の家で、同宿者には大沢三之助や佐藤功一がいたという。胖も同じ家か或は近所に下宿していて、胖と富本はそこで知り合ったのではないか。ロンドンから帰った富本は安堵町に窯を開く。胖の陶芸の師は富本に違いない。(注2)
大正6年(1917)3月31日、帰阪中、関西建築協会創立総会(於大阪ホテル)に出席。東京、住友麻布別邸竣工。麻布の「大高写真館」作成の竣工記念写真が残っている。[写真]
住友銀行東京支店ビル完成(設計:日高胖)
12月27日付、男爵住友吉左衛門、大阪府立図書館建物増築寄附申し出。
大正7年(1918)1月31日、大阪府知事林市蔵寄附申し出を採納。
3月23日、梅田静観楼、関西建築協会春季大会。編集役員に選挙された。
6月22日付、住友総本店理事・湯浅寛吉より交際手当500円支給の通知を受ける。(総本店臨時雇、日高胖殿とある。)
10月3日、関西建築協会主催、南地明陽軒で「日高、光安両氏送別会」。10月13日、横浜出帆。光安梶之助とともに住友総本店建築のための「建築材料並びに事務所設備事項取調べ」のためアメリカへ出張。帰朝は大正8年3月30日。カリフォルニアとネバダ州の国境にあるLake Tahoeの雪景色、シアトル風景など多くのスナップを残している。
「日本の都市」(『関西建築協会雑誌』6月号)「建築の職業と其技術に就いて」(『関西建築協会雑誌』9月号)
大正8年(1919)3月18日、日本建築協会、理事改選、編集役員に選挙された。
「渡米所感」(『建築と社会』6月号)
大正9年(1920)住友家京都鹿ケ谷別邸[大正2年~](設計:日高胖、長谷部鋭吉)
「米国に於ける簡易食堂」(『建築と社会』1月号)
大正10年(1921)1月、大阪府立図書館増築起工。(~大正11年10月竣工)
5月、住友合資会社技師長並びに工作部建築課建築係長兼務を命ぜられる。「日本畳を利用する和洋折衷式住宅」(『建築と社会』11月号)
大正11年(1922)数奇屋風の和風住宅といわれる自邸を花屋敷に建てる。
「日高氏の新邸」(『建築と社会』5月号、華城閑人著、執筆年月日か或いは筆者が日高邸を訪れた日か、最後に大正11年4月11日と書かれている)10月21日、府立図書館増築落成式。
10月22日、住友関係者約200名を招き、図書館において祝宴が行われた。
12月25日、鈴木馬左也住友相談役、大阪府立図書館商議員(明治36年7月11日、商議員委嘱)逝去。
「暖房を奈何にすべき?」(『建築と社会』2月号)
大正12年(1923)「耐火的建築に就いて」(『建築と社会』2月号)
大正13年(1924)11月27日、住友ビルディング定礎式。春翠これに臨み、胖は技師長として列席した。
大正14年(1925)工作部建築課長兼務。
11月19日、中田錦吉住友総理事、大阪府立図書館商議員(大正12年4月6日、商議員委嘱)逝去。
昭和 元年(1925)3月2日、男爵住友吉左衛門(第15代家長、元治元年12月21日生、諱友純、号春翠、徳大寺公純第6子)逝去。
春翠は建築家日高胖を評価する一方、陶芸、絵画等を愛する趣味人としても一目置いていたのではないか。胖は大正14年、大阪住吉の茶人草鹿宗園から春翠共々茶会に招かれている。
昭和 2年(1927)日本建築協会副会長。
昭和 3年(1928)5月14日付、工作部長の辞令を受ける。
「地震と建築」(『建築と社会』11月号、 “此稿は去る9月1日関東震災記念日に放送したる講演の摘録なり”)
昭和4年(1929)1月12日~16日、中村彝遺作展覧会(於:大阪・朝日会館)を鑑賞か。
昭和5年(1930)6月、定年を迎えるがこの後満10ヶ月間在職。
朝鮮博覧会を観覧か。
日本建築協会評議委員、住宅委員会委員長を務める。
「住宅建築」(『建築と社会』5月号)
昭和6年(1931)4月14日、定年退職。
(株)住友ビルディング取締役に就任。
11月29日、胖の長男輝と小倉の長女恆が華燭の典を挙げた。
「地震と建築‐震火災と建築大講演会開催に際して」(『建築と社会』2月号)
昭和7年(1932)神奈川県鎌倉に自邸を建てる。
日本建築協会創立満15年記念事業委員会、展覧会部委員となる。
日本建築協会主催、大美野田園住宅博覧会委員。
昭和8年(1933)陶芸家板谷波山に花瓶制作を注文する。
昭和10年(1935)東京市渋谷区に自邸を建てる。
昭和11年(1936)12月、故中條精一郎記念事業への賛同依頼状を受取る。
中條の死去は昭和11年1月30日、この発起人は、伊東忠太、内村達次郎、大河内正敏、櫻井小太郎、佐藤功一、曾根達蔵、長野宇平治、中村傳治、松井清足、横河民輔、和田英作
昭和12年(1937)1月31日付、(株)住友ビルディング、「定時株主総会招集通知書」
「第二号議案 前取締役川田順氏ニ退職慰労金贈呈ノ件」がある。
川田順が住友合資会社を退社したのは昭和11年5月であった。
昭和21年(1946)10月10日、日本建築協会名誉正会員。
昭和27年(1952)12月25日、鎌倉の自邸で79歳の生涯を閉じた。
12月27日、東京芝増上寺で告別式。
昭和28年(1953)3月、「故名誉正会員 日高胖君」社団法人 日本建築協会 会長竹腰建造 (『建築と社会』3月号掲載)
11月9日、大阪府立図書館では創立50周年記念式典が行われた。招待者名簿には第16代住友吉左衛門(ペンネーム泉幸吉)、川田順、小倉正恆と共に大正12年図書館増築時の住友関係者の名前がある。関係者は次ぎの人達である。長谷部鋭吉、河盛益太郎、堀田猷次郎、古田知三(注:吉田知之の間違いか?)、小倉省三、城 武三郎、中田幸一郎。

 『日本の建築・明治大正昭和-5 商都のデザイン』の「日高胖年譜」を参考に作成。
(注1)『住友春翠』芳泉会編発行、昭和50年【352-7945】
(注2)『私の履歴書 文化人 6』<富本憲吉> 日本経済新聞社、昭和58年【351-2709】  

日高胖の思い出

日高胖の思い出(1)

『祖父(筆者注:日高胖)はまた私の母を可愛がり、開戦後暫くは母を伴って銀ぶらをして、資生堂パーラーでお茶をしていたという。今、思えばハイカラさんで、昭和初期なのに2階に洋式バスタブ(筆者注:渋谷の自邸)、戦争初期でも出前のざるそばと白ワインをウエスティングハウス製電気冷蔵庫で冷やし、足の長いワイングラスで飲んでいたのを覚えている。』
『何故江戸っ児の祖父が住友家に仕えたのか、私の推測では、当時の日本では長男と次男の格差は大きく、次男の祖父は家督を当てに出来ないし、自主独立のために良い条件の住友に決めたのだろう。また外国留学も条件に入っていたと思われる。彼はロンドンを好み、昭和28年に今の 私の家で死ぬまで『住むならロンドン』と言っていた。』

(「二人の祖父」日高廣、『Containerization』No.292.1997.1)

日高胖の思い出(2)

『地下に浄化槽を備え(筆者注:渋谷の自邸)、2階にバスルームがある。畳の部屋は少なく、廊下や食堂の床はコルク板で敷きつめてある。柱などには檜の節材を用い、節々庵と名づけていたが、いま流の建築のようにシャレている。シャレているといえば、父はパン食で、夕食のときはフランス・ボルドー産のぶどう酒を欠かさずたしなんでいた。当時としてはずいぶん優雅だったのではなかろうか。』

(『私の履歴書』日高輝、日本経済新聞社 昭和56年)

野口孫市:明治2年(1869)~大正4年(1915)

 明治32年逓信省から野口孫市が招かれた。孫市は明治2年4月23日、姫路に生まれた。孫市の父は野口野(いやし)といい五人扶持の微禄な武士で、京都の藩屋敷に勤め藩の外交にあたり大田垣蓮月とも親交があったという。野口の本家は代々砲術師範の家柄であった。
 維新後、野(いやし)は化学的知識を生かして無鉛白粉を売ったりした時期もあったが、兵庫県庁の官吏となり46歳で他界した。孫市の姉・ゆか(幽香)は慶応2年2月1日生まれ。幼い頃、親戚の田島藍水の塾に通い漢学と英語を習う向学心の旺盛な女性であった。その資質は孫市も同様であった。長じて東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に入学した。姉弟は明治19年に父・野を次いで母を失うが、幸い幽香は官費生、孫市は旧藩主の奨学金をもらい大阪の第三高等中学校(三高の前身)で勉強だけは続けることができた。幽香は明治33年1月、森島美根と窮貧階層の子ども達を保育する二葉幼稚園を東京麹町区に設立した。幽香は日本における貧児保育の先駆者となった。一方孫市は明治24年、東京帝国大学工科大学造家学科に入学。さらに大学院で耐震家屋の研究をした。明治29年、逓信省入省。この年、大阪道修町に建築された明治生命保険会社を設計している。
 住友臨時建築部に入った孫市は技師長として中之島図書館(当時は大阪図書館)を設計する。この時野口孫市を補佐したのが日高胖である。工期3年5ヶ月、総工費15万円、大阪に出現した最初の近代的図書館であった。孫市は将来を嘱望されながら大正4年10月26日、47歳で長逝する。大正9年、孫市が設計した建物の写真、設計図、装飾を集めた『野口博士建築図集』が出版された。胖は「故工学博士野口孫市君小伝」の一文を寄せ、その人となりを功績とともに紹介し後世に残したのである。

小倉正恆:明治8(1875)~昭和36年(1961)

 明治32年山口県参事官だった小倉正恆が鈴木馬左也の推薦で住友に入った。小倉は明治8年3月22日、石川県金沢市生れ、金沢の第四高等学校から東京帝国大学法科大学英法科に学び、内務省に入省。明治30年山口県参事官になった。小倉は住友本店副支配人心得を振り出しに住友総理事を始め、民間企業で数々の要職を歴任し、昭和16年4月住友本社退職。第三次近衛内閣の大蔵大臣に就任。昭和36年87歳で人生の幕を閉じた。

「私は中学生の時に、父(筆者注:日高輝)が興銀大阪支店長で転勤した折、腕白坊主であったため吉祥寺の祖父(筆者注:正恆)の家に預けられた。特に親しく会話をした訳でもなかったが、不思議な老人で、朝食や夕食でも祖父が床の間を背にして座ると、ただそれだけで、温顔なのにそこの空気が引き締まり、ごちゃごちゃ言わずとも何となくその気になる空間実体験を覚えている。」 (「二人の祖父」日高廣、『Containerizaton』No.292.1997.1)

大正の図書館増築

大正11年、大阪府立図書館増築時の住友関係者
  技師長 日高胖  技師 長谷部鋭吉、光安梶之助、森正蔵 他

日高胖が技師長として取り仕切った大正の増築とは、明治37年に建設された本館の建築スタイルを踏襲して左右両翼に建物を増築したというのに留まらない。「面目を一新せり」といわれるほどの増築・改装工事であった。それは、本館各室壁の塗替え、敷物の取替えに始まり、屋根の亜鉛板葺を銅板葺に、本館3階閲覧室の間仕切りの撤去、全館の暖房、電灯の装置を新館(増築棟)に準じて取替え、下足預所の拡張、出納台等の増設といった大掛かりなものであった。

○『図書館日誌』等から増築関係記事を抜粋する。
 大正7年1月17日、本日午後本館増築設計準備の為め住友建築部より長谷部氏(筆者注:長谷部鋭吉)、及高橋氏の両名来館館長(筆者注:今井貫一)面接退館。

 長谷部鋭吉、大正7年当時34歳、大正の増築では、技師長日高胖を補佐した。増築設計準備は大阪府の寄付採納前から動き出していたことがわかる。高橋は高橋栄治か?

 大正7年2月25日、是日開館記念日なるを機会とし本館増築の大事業決定を記念せんが為に、増築仮設計案を閲覧者に示し、併せて内外主なる図書館の写真類を陳列せり。

  大正7年1月31日の大阪府知事の寄付採納を受け、早くも設計案が示されている。仮設計図は平面図やパースだったのだろうか。

 大正7年6月27日、本日午後三時より豫て住友男爵より本館増築寄附の件決定に就き該増築設計並に増築後の新施設に関し図書館商議員会開催午後五時半了。
 本日参会者 林知事、小川学務課長、吉田府属、商議員 住友男爵、鈴木馬左也、平賀義美、佐多愛彦、関一、浜口庄吉、右の外 建築関係者 日高胖氏参会。

 この時点で増築の基本設計が完了していたことがわかる。日高胖が図書館商議員の前で増築設計の詳細を説明したのであろう。

 大正7年6月30日、本日午後一時市内各新聞社及三通信社編集部員十三名を招き階上特別閲覧室に於て住友男爵より本館増築寄附決定に付増築設計並に増築後施設の件に付披露ありたり。

大正7年10月~大正8年3月 日高胖米国出張
 大正8年12月~大正9年7月 長谷部鋭吉欧米出張

 大正10年1月13日、「本日午後二時より本館商議員開催午後四時前解散」、本日会議事項として”本館増築に関する件”が上がっている。
「出席者 池松知事、上田内務部長、阪間学務課長、安野大阪府属、住友男爵は病気の為め代理として中田錦吉氏を出席させらる、佐多愛彦、関一、平賀義美、和田廉之助、日高胖、鈴木馬左也氏は病気のため欠席せらる」

図書館日誌には、増築工事開始時期の記録はない。日高胖が出席し たこの会議の席上、建築工事の時期等が説明されたと考えられる。ただし『大阪府立図書館要覧』(昭和3年刊)では、12月、工を起こすとしている。※小西隆夫氏は大正10年1月起工とされている。※『北浜5丁目13番地まで』

 大正11年10月21日、本館増築工事竣工に付本日十一時より本館増築南館三階に於て落成式挙行来賓約三百八九十名。式後北館三階に設けたる食堂に於て盛大なる立食の祝宴を催し午後一時過ぎ退館。
 大正11年10月22日、本日住友建築課工作部より本館増築工事請負人約二百名を招き本館増築北館三階に於て祝宴を催されたりき。
増築総経費=(総工費+設備品総額)42万7884円16銭。
建築関係:大正11年増築の建坪199.32坪(657.7平方メートル)、延坪614.54坪(2,027.9平方メートル)
明治37年建築の旧館と合せて建坪456.69坪(1,507平方メートル)、延坪1,497.91坪(4,943.1平方メートル)

「大阪府立図書館拡張案概要」には次のような記述がある。
一.建築 別紙設計図ノ如ク本館南北空地ニ本館同様ノ石造三階建総建坪約貳百参拾五坪ヲ増築シ約拾四坪ノ石造廊下ヲ以テ新旧両館ヲ連結ス
二.建築工費ハ南北両館及廊下共平均一坪ニ付千参百円ト見積リ総工費参拾貳萬参千七百円、増築館内設備費ハ卓子椅子陳列函等ヲ重ナルモノトシ其経費概算五千円旧館左翼三階ノ間仕切ヲ撤去シテ一室トナシ其一隅ニ出納所ヲ新設スル模様替工費約千円合計参拾貳萬九千七百円


図面 『陳列台・閲覧机・椅子・其他家具図面』全14枚 青焼の図面である。
図面の表紙に「住友合資会社建築課」とあり、技師長の欄に日高の承認印がある。
 例えば、「図書館1階陳列台」には”数量2台、材料・オーク、仕上げ、目止めラック拭い。内部羅紗張り”、「会議室用椅子」には”14台、材料・オーク、張・レザー張り、仕上げ・目止めラック塗”、「閲覧室用椅子」には”数量364脚、材料・オーク但し敷板塩地、仕上げラック拭い”、「職員食卓」には”数量2脚、材料・塩地、仕上げスリ漆”などと記載されている。

絵葉書で辿る・日高胖の欧米出張旅行

 明治41年(1908)7月27日欧米出張を命じられる。8月9日大阪出発、門司から船に乗り大連に渡り、シベリア鉄道でロンドンに向かった。ロンドン-フランス-スイス-イタリア-スペイン-ギリシャ-トルコ-ハンガリー-ドイツ-イギリス-アメリカを回る約1年に及ぶ出張旅行であった。その旅を絵葉書と地図で辿ってみよう。(発信地の地名は絵葉書のままとした。)

    

8月21日[葉書1]奉天にて。昨夜撫順より到着。
8月28日付[葉書2]ハルビンを出て4日目、イルクーツクに到着。汽車を乗り換えモスコーへ。
9月 1日[葉書3]午後3時。9月3日夕にはモスコーに着くべし。
9月 2日[葉書4]午後4時、18町あるというアレキサンダー橋を渡る。長崎は今ごろ午後10時位。
9月 4日[葉書5]午前9時。スモレンスクにて。
9月 8日[葉書6]ベルリン発の葉書。本日9時25分ベルリンを発ち、9月9日午後7時にロンドン到着予定。
9月10日[葉書7]ロンドンに到着。翌10日に長崎の妻光井に葉書を書いている。
From Y.Hidaka No.26 Cathcart Rd South Kensigton S.W. London
胖のアルバムに明治41年、大沢三之助とロンドンで一緒だったことを思わせる写真がある。大沢三之助は野口孫市と同期で明治27年東京帝国大学工科大学造家学科卒業である。明治41、2年頃ロンドンには大沢、富本をはじめ多くの日本人が滞在していた。
ちょうどロンドンで開催されていたFranco British Exhibitionを観覧したと推測される。Franco British Exhibitionの会場と胖の宿は近かった。Exhibition会場の地図も所持していた。絵葉書も集めている。[博覧会の地図]
10月3日[葉書9]グラスゴーに到着。ロンドンより余程静か。
10月7日[葉書10]エデンバラにて。小生儀昨夜当地着。リバプール、マンチェスターを見て15日頃ロンドンに帰着の積もり。
 胖の遺品の中にイギリス、エディンバラのポケット地図がある。地図には建 物が鉛筆でマークされている。[地図]
 マークされているのは、Waverley Station周辺の建築である。駅の北、Queen StreetのNational Portrait Gallery, この建物は1880年にRobert Rowand Andersonが設計したネオ・ゴシック建築である。 Resister Office,西のChapel Royal, The Palace of Holyrood Houseのこと。 National Gallery, County Hall, Perliament Office, University Medical Callege, South BridgeのEdinburgh University の8ヶ所である。
10月27日[葉書11]ケンブリッヂ着。田村藤四郎宛。雨天で大いに閉口、別に驚くべき建築物もなく失望した旨を書いている。
11月 1日[葉書12]光井宛。
11月11日[葉書13]West Brompton消印。田村藤四郎宛。9日ロンドン市長が交代した。
 胖は明治42年1月ロンドンにいた。住まいは26, Cathcart Rd. West Brompton S.W. Brompton roadに面した百貨店Harrodsの案内図が遺品にあるが、きっとHarrodsを見物したに違いない。ハイドパークやロンドンの中心街を満喫し、住むならロンドンと孫に語ったのだろう。
1月20日[葉書14]スイス、インタールラッケンからの葉書。当地方雪景色。明朝ルセルンへ出発。
1月24日[葉書15]リヨン。今朝当地に着。スペインと異り寒気甚数。午後当地を発ってジェノバに向かう積もり。
1月26日[葉書16]ジェノバにて。昨夜当地着。1泊して明朝ルセルンへ向かう積もり。
1月30日[葉書17]ミラノ。昨夜当地到着。当地も中々寒気甚数閉口。
2月 1日[葉書18]ヴェニスにて。昨夜当地着。当地見物の後、明後日朝ジェノアに向かうつもり。当地も中々寒し。
2月 3日[葉書19]ピサ。本夕当地着。
2月 5日[葉書20]於フローレンス。4日フローレンス着。ピサに比べて寒い。
2月 6日[葉書21]フィレンツェ。
2月 7日[葉書22]ローマ着。本夕当地着。中々繁華な土地、気候温暖。
2月11日[葉書23]消印、於ローマ。
2月12日[葉書24]長崎消印、スペイン、バルセロナ。
2月12日[葉書24]長崎消印、スペイン、グラナダ。
2月19日[葉書25]ローマ。
2月20日[葉書26]於ナポリ。先刻当地着。7時20分発でメシナに向かう積もり。
2月25日[葉書27]メシナ着。拝啓小生儀去る21日当地着。全市丸潰の有様と書いている。
 イタリア、シシリー島メシナで地震があったのは、明治41年12月28日。
 7万から10万人が亡くなった大地震、マグニチュードは7.5と推定されている。
 メシナの惨状を目の当たりにしたことが、後の住友銀行東京支店設計に生かされたのかもしれない。東京支店は大正12年の関東大震災にも倒潰することはなかった。
 遺品の中に、「Building structures in earthquake countries 」By Alfredo Montel, Translated from the Itarian,with additions by the author,London,Charles Griffin & Company,1912年の1冊がある。
3月1日[葉書28]於:ナポリ。拝啓一昨27日「メシナ」より当地着。明日ブリンデシーより海を渡り「グリース」ー「アゼンス」に向かう積もり。
3月3日[葉書29]於ブリンデシイー。先刻午後2時頃当地到着。船でグリース(ギリシャ)のパトラスに上陸、汽車でアゼンスに向かう。当地方中々寒し。
3月5日[葉書30]アゼンス着。海上平穏本日午後3時半頃当地到着。
3月8日[葉書31]イスタンブール。今朝当地着、明朝「コンスタンツァ」より「ブダペスト」へ直行する積もり。
3月8日[葉書32]コンスタンチノープル。
3月11日[葉書33-1]ブカレスト。9日午前10時、コンスタンチノープルを発つ。風波のため船7時間ほど延着。大風雪のため汽車が途中で立往生し、11日今朝1時当地着。
3月11日[葉書33-2]ブカレスト。
3月12日[葉書34]ブダペスト。
 1908年出版のブダペストの地図が残っている。[地図]
“Neuster Plan von BUDAPEST”1908
  地図に鉛筆でマークがある。
3月14日[葉書35]ヴィエナ。コンスタンチノープルからウィーンに到着。胖は探偵風の男2人に付きまとわれて大閉口。
 胖はつきまとわれて閉口した葉書を2枚書いている。1通は光井宛、もう1通は田村藤三郎宛だが投函しなかった。2枚書くほどショックだったのだろう。
3月18日[葉書36]消印、ドレスデン発 
3月19日[葉書37]ベルリン。
3月22日[葉書38]Ada Kalehの絵葉書、発信地不明。
3月24日[葉書39]消印、ハンブルヒ。
3月25日[葉書40]ケルン。
4月17日[葉書41]胖はCathcart Rd, S.Kensigtonにいた。
 この後、7月までの絵葉書は残っていない。胖がロンドンからニューヨークに渡りフィラデルフィアに着くまでのものだ。
7月 5日[葉書42]フィラデルフィア。
7月 7日[葉書43]本朝ピッツバーグ着。鉄工場を見て、シカゴへ向かうつもり。英国のマンチェスターと同様、市中に煤煙多く閉口。
7月 9日[葉書44]今朝シカゴ着。暑気に閉口。13日に出発して、桑港に着く積もり。
7月15日[葉書45]サンフランシスコ。
7月18日[葉書46]シアトル。土佐丸で帰朝する予定。この時シアトルで開催されていた ALASKA-YUKON-PACIFIC EXPOSITION(アラスカ・ユーコン太平洋博覧会)の農業館と工業館を見学予定と書いている。
 ALASKA-YUKON-PACIFIC EXPOSITION(アラスカ・ユーコン太平洋博覧会)は1909年6月1日から10月16日までワシントン大学の構内を会場として開催された。期間中70万人が訪れたという。

『日本の建築[明治大正昭和]5 商都のデザイン』坂本勝比古編著の日高胖年譜には明治41~42 年の出張が次ぎのように紹介されている。
※1908年 7月27日、欧米へ出張を命ぜられ8月9日大阪を出発、門司より船で大連に渡り シベリア経由でヨーロッパへ、9月9日ロンドンに着く。ロンドンを中心にイギリス国内、 フランス内地を旅行し、年末にロンドンに戻った。
※1909年 新年をロンドンで迎え、1月15日より本格的な大陸旅行に出掛け、スペイン、イ タリア、ギリシャ、ハンガリー、オーストリア、ベルリン、オランダ、ベルギーを廻って4 月3日ロンドンに出てニューヨークに渡りアメリカを横断、7月10日、11ヶ月振りに帰国 した。

展示資料

日高胖氏の遺品等・個人蔵

中之島図書館所蔵

参考文献

なお、この展示に使用した日高胖氏の遺品は、全てご令孫日高廣様(元商船三井常勤監査役、現湘南ビーチFM,DJ)からお借りいたしました。

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