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大阪府立中央図書館 国際児童文学館 資料展示「メディアを横断する『賢治』-ガラス絵、絵本、マンガにみる宮沢賢治-」【解説】

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年10月14日更新

 「メディアを横断する『賢治』-ガラス絵、絵本、マンガにみる宮沢賢治-」資料展示【解説】

はじめに

 明治期の東北に生まれ、その地を〈イーハトヴ〉(ドリームランドとしての日本岩手県)と呼んで愛した作家・宮沢賢治。「雨ニモマケズ」で知られる詩人は、「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「セロ弾きのゴーシュ」など、生涯多くの童話・戯曲などの散文作品を執筆しましたが、その多くが未完成・未発表でした。

 大正期の『赤い鳥』創刊(1918=大正7年)前後に創作を開始。同時代においては稀有なファンタジーを独自の世界観で作品化しましたが、生前の児童文学者としての評価は決して高いものではなく、童話集『注文の多い料理店』1冊を公刊(1924=大正13年)したものの、ほとんど顧みられることがありませんでした。

 しかし、賢治の童話は現代においてこそ多様に読まれ、没後80年を超えてなお、作品は新鮮な輝きを放っています。絵本やマンガ、アニメーション、映画や演劇、絵画や音楽など、さまざまな分野で再創造されているほか、33に及ぶ言語にも翻訳され世界各国で読まれています。再話者は賢治のどこに魅せられ、その世界をいかに再創造したか、その世界を鑑賞することは、再話者が読み解いた賢治作品の〈よみ〉を追体験することに他なりません。

 今年は賢治が生を受けてから120年を迎えます。節目の年にあたり、本展示では、当館が所蔵する賢治作品を原作とする〈再創造された作品群〉を取り上げ、再話者が原作の有するエネルギーをいかに捉えたか、そしてどのように発信したかを見ていきます。多様なメディアで再創造された作品のヴァリエーションをご覧ください。

主 催: 大阪府立中央図書館 国際児童文学館、大阪府立中央図書館指定管理者 長谷工・大阪共立・TRCグループ

協 力: 一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団

 宮沢賢治

 童話作家、詩人。1896(明治29)年、質・古着商を営んでいた父・政次郎、母・イチの長男として岩手県稗貫郡花巻町(現・岩手県花巻市)にて出生。石川啄木(1886=明治19年生まれ)も学んだ盛岡中学を経て、盛岡高等農林学校で地質学・土壌学を修める。卒業後、稗貫農学校(現・岩手県立花巻農業高等学校)教諭。

 4年余にわたる教員生活の後は農村の中に入って羅須地人協会を組織、農民のための芸術・文化向上に尽力し、自らの専門である土壌学や地質学などの科学的知識をもって農村に光を灯そうとしたが挫折した。若い頃から法華経に傾倒し、一時期菜食主義者であった。自ら作詞作曲を手がけ、音楽にも才能を発揮。1933(昭和8)年、急性肺炎のため38歳にて永眠。

 東北の風土に根ざした詩や童話を多く執筆。1918(大正7)年夏、「双子の星」「蜘蛛となめくぢと狸」(いずれも生前未発表)を家人に読み聞かせたのが最初期の童話の創作と考えられている。

 童話・童謡として公表した最初のものが、雑誌『愛国婦人』に発表した童謡「あまの川」(1921=大正10年9月号)。その他の代表作に「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「セロ弾きのゴーシュ」など。

 生前に刊行した童話集は、『注文の多い料理店』(1924=大正13年)1冊のみ。詩では、これも生前唯一の『春と修羅』(同上)があり、殊に妹の挽歌群「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」は有名。

1.賢治童話 評価および受容の歩み 

  (1) 生前唯一の童話集『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』

 賢治が生前に発表した童話は多くありません。そのうち、公刊された唯一の童話集『注文の多い料理店』(2)(1924=大正13年)には、表題作を含め、「どんぐりと山猫」「(狼(おいの)森と笊(ざる)森、盗(ぬすと)森」「烏の北斗七星」「山男の四月」「水仙月の四日」「かしはばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」「鹿(しし)踊(おどり)のはじまり」の9作品が収録されています。1,000部が刊行されたといわれていますが、全く売れず、実に「注文の少ない」童話集だったようです。

 装画装幀を担当したのは、岩手県江刺郡の出身で1894(明治27)年生まれの菊池武雄。知人を介して、賢治から童話集の装画を依頼されました。当初、菊池は断りましたが、職業画家でない方がよいとの賢治の意向で最終的に受諾。表紙には、雪道を急ぐ「水仙月の四日」の少年の姿を印象的に描きました。本書の出版に合わせて作成された広告ちらしによると、童話集は12冊のシリーズのまず第1冊だと述べられており、継続的に刊行していく意図があったことがわかります。

※解説に出てくる資料名(著者名)の右肩にある「()」内の数字は、資料展示リスト(児童文学館資料等)の通し番号です。

 (2) 雑誌『赤い鳥』と賢治童話

 宮沢賢治が、はじめて童話を弟妹らに読み聞かせたのは1918(大正7)年夏。一方、「純麗な童話と童謡を創作する最初の文学的運動」をモットーに、鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』が創刊されたのも同年7月でした。賢治の童話創作も、時代の影響があったと考えられます。

 『赤い鳥』に、自らの童話の掲載を希望し、知人を通じて赤い鳥社に作品を持ち込んだ賢治でしたが、三重吉は「君、おれは忠君愛国派だからな、あんな原稿はロシアにでももっていくんだなあ」と断ったと言います。これが、賢治童話の子どもの文学としての評価としては最初期のものでした。

 しかし、同誌1925(大正14)年1月号(3)に、賢治の童話集『注文の多い料理店』の広告が掲載されています。〈東北の雪の広野を走る素晴らしい快遊船(ヨット)だ!〉とのキャッチコピーは、赤い鳥社で編集に携わった木内高音の配慮によるものと言われていますが、〈赤い鳥社でも取り次ぎます〉というメッセージに対し、注文は全くなく、殆ど反響はなかったとのことです。

(3) 雑誌『月曜』と賢治童話

 雑誌『月曜』は、詩人・尾形亀之助主宰の雑誌です。〈子供を客とする雑誌ではない〉と言いつつ、〈ひろい意味での童話〉〈ひろい意味での「メールヘン」〉をめざし、1926(大正15)年1月に〈童話、童謡、詩、絵、音楽、戯曲、小説読物、随筆すべてやさしい形のもので、手離してはもの足りない春のステッキ〉との宣言文句のもとに創刊されました。この期の〈童話〉が意味するものを示すとともに、大正期童心主義の影響下にある雑誌ともいえます。

 作品を寄せている作家に、島崎藤村、室生犀星、山村暮鳥、佐藤春夫らの詩人とともに、児童文学関係では浜田広介、武井武雄らの名も見えます。本誌第1巻第1号(4)に賢治の「オツベルと象」が掲載されたのは、大正末年、詩壇において既に定位を持ち始めたことが寄稿に結びついたと考えられます。

 なお、本誌第1巻第2号(1926=大正15年2月1日発行)に賢治は「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」を、第3号(同年3月1日発行)には「寓話 猫の事務所」をそれぞれ寄せています。

(4) 数少ない生前発表雑誌 佐藤一英編輯 季刊『児童文学』 

 数少ない賢治の生前発表作品のうち、2作を掲載するのが季刊『児童文学』です。詩人・佐藤一英が〈欝然たる童話文学のルネッサンス〉を標榜して創刊した同人雑誌で、1931(昭和6)年に第1冊、翌年に第2冊を出して廃刊しましたが、新進の詩人を起用して創作や翻訳で存在感を示しました。

 賢治は、本誌第1冊(5)に「北守将軍と三人兄弟の医者」(挿絵は棟方寅雄)、第2冊(6)に「グスコーブドリの伝記」(同、棟方志功)を寄稿。引き続き原稿依頼を受けていたようで、知人宛の書簡で「この頃『童話(ママ)文学』といふクォータリー版の雑誌から再三寄稿を乞ふて来たので既に二回出してあり、次は『風野又三郎』といふある谷川の岸の小学校を題材にした百枚くらゐのものを書いてゐます」と述べています。

 しかし、本誌はこの2冊で終わり、残念ながら「風野又三郎」が掲載されるはずの第3冊は世に出ませんでした。〈この国の有力な詩人小説家の手になる児童文学〉(編集後記)とあるように、賢治童話の評価はまず、詩壇においてなされたといえそうです。

(5) 初の全集 文圃堂版『宮沢賢治全集』全3巻

 生前はあまり評価を受けなかった賢治ですが、没後は草野心平、高村光太郎らの尽力により、少しずつその名声を高めていきます。まず、1934(昭和9)年には文圃堂から最初の『宮沢賢治全集』全3巻(7)~(9)(装幀は高村光太郎)が刊行されます。第1回配本に[童話篇]、その巻頭に「銀河鉄道の夜」が収録されました。事実上、作品選択を一人で行ったという草野心平は、後年この全集の編集について〈宮沢賢治の立体像をつくることに中心をおかふと思つた〉〈出来るだけ多角面の作品を収録しようとした〉と述べています。

 一方、全集収録の「覚え書」(署名:「編集者誌(ママ)」)には、〈どれを選ばうにも甚だ迷〉ったが〈後期の作と長篇とを主眼にしてこの巻を編んだ〉と記載があります。全集目次には、巻頭作に引き続き、「グスコーブドリの伝記」「セロ弾きのゴーシュ」「ポラーノの広場」「風の又三郎」「北守将軍と三人兄弟の医者」と賢治が晩年まで手を入れた長篇が並んでいます。

(6) 児童文学としての賢治童話

 昭和初年、当時の児童文学界の理論的支柱と言われた槇本楠郎は、自著『新児童文学理論』(1936=昭和11年)において、〈最近文壇的に持て囃された宮沢賢治の『童話』と称するものの如きは〉児童文学とは〈似て非なるもの〉という否定的な評価を下しています。その一方で、槇本が同時期に編集した『現代童話集』(1934=昭和9年)に、賢治の「なめとこ山の熊」を自ら選んで収録しており、その評価が揺れていた様子が垣間見えます。賢治童話は子どもの文学か。この問題は戦後にも引き継がれ、さまざまな議論がなされるようになっていきます。

昭和10年代に入ると、劇団東童(12)(13)による宮沢賢治作品の劇化、日活による「風の又三郎」の映画化、賢治の教え子・松田甚次郎による賢治思想の実践記録の出版(『宮沢賢治名作選』)(16)など、賢治に関するさまざまな話題が提供されるようになります。こうした動きに連動して、子どもの本の世界でも、初の個人童話集『風の又三郎』(17)や『グスコーブドリの伝記』(18)(以上、羽田書店)、『銀河鉄道の夜』(19)(新潮社)が登場します。賢治童話は、児童文学において、積極的に出版・紹介されてきたといえます。

2.賢治童話 絵本化の試み

(1)注文の多い料理店

  「注文の多い料理店」は、賢治生前唯一の童話集の表題ともなった作品です。童話集では、菊池武雄が装幀挿絵を担当。同作の扉には山猫を、表題作の挿絵には深い山のなかで道に迷った紳士のまえに、突如あらわれた山猫軒を描きました。原文では〈立派な一軒の西洋造りの家〉と表現される山猫軒ですが、菊池の絵は決して怪異のようなものではなく、ささやかでシンプルなものに見えます。これが、賢治も見た「注文の多い料理店」の最も早い作品の絵画化でした。

 その後、多くの絵本作家が本作を手がけていますが、見どころの一つは紳士や山猫、山猫軒をいかに描いたかという点です。

 スズキコージ(21)は、絵本全体を黒っぽい背景にし、山猫軒は紳士の側からやや明るめに配置しました。ほとんどのページに紳士や扉を大きく配しているのが特色で、山猫の手中に陥る紳士たちを客観的・戯画的に描こうとする意図を感じます。

 表紙を山猫軒にした本橋英正(22)は、正面の扉に山猫の顔をあしらう遊び心のある画風を選択。しかし、本文では一転して山猫軒を扉しか描いていません。読者のイメージを損ねることを敢えて避けたとも考えられます。

 不気味かつ怪異な山猫を大きく表紙に描いたのが三浦幸子(23)の絵本です。山猫軒は、大きな二階建てのかなり重厚な造りとなっています。この画面の、山猫軒や紳士の周囲に配置されている木とも霧ともつかない黒を基調とする線は、紳士たちを狙う山猫の姿を暗示しているといえます。

 一方、「画本宮沢賢治」シリーズで一貫して賢治を描き続ける小林敏也(24)も、やはり山猫軒をほんの一部しか描きませんでした。さらに、小林の絵本では、紳士の姿がほとんど登場しません。よって、読者は紳士の視点から作中に入り込み、扉を開けて山猫軒の奥深くに進み、その恐怖を体験するように仕組まれています。原作の特徴をうまく生かした試みといえるでしょう。

(2) 水仙月の四日

  「水仙月の四日」を最初に描いたのが菊池武雄です。広大な雪丘に赤い毛布が際立つ子どもの姿。賢治と同じ東北に生まれ育った画家の絵は、童話集の表紙を飾り、後の本作の絵本化に影響を与えたといえます。

 これに取り組んだ画家の一人が、赤羽末吉(25)(26)です。茂田井武の『セロ弾きのゴーシュ』に感銘を受け、絵本の世界に入った赤羽ですが、彼が初めて挑んだ賢治作品が「水仙月の四日」でした。賢治童話との凄まじいまでの格闘の様子は後年自ら書き残していますが(『月刊絵本』1977年7月)、画は賢治が表現した多彩な光や硬質な雪の色彩に力点が置かれています。〈雪丘のすそ〉を急ぐ子どもと、〈雪丘の上の方〉を行き来する雪婆んごや雪童子、雪狼を交互に描くことで、それぞれの視点から賢治が紡いだ言語表現を味わうことを可能にしています。

 また、この作品の見どころの一つは、雪童子が子どもに投げた〈やどりぎ〉です。

 これを表紙に描いたのが鈴木靖将(27)ですが、この絵本ではほとんどのシーンでやどりぎが印象的に描かれます。特に結末では、雪に埋もれる子どもの側にひときわ大きなやどりぎが配置されています。生命の象徴ともいわれるやどりぎの描き方に、原作に対する鈴木のよみ、すなわち生きて父のもとへ戻るであろう明るい結末が予兆されているといえます。

 他に、まっ青だった空が群青へと陰り、さらにはまっしろへと急変する天候を幻想的にイメージした伊勢英子(28)の絵本、神秘的な雪の精霊たちを伊勢とは対照的に具体的に描き、表紙には雪童子と雪狼を鮮明なイメージで描いた黒井健(29)の絵本などがあります。

(3) セロ弾きのゴーシュ

  茂田井武の『セロひきのゴーシュ』は、絵雑誌『こどものとも』(30)(福音館書店)の第2号に描かれたものです。茂田井の傑作、代表作といわれますが、病床にあった茂田井が最後の仕事と決めて打ち込んだために、茂田井の死期を早めたとも指摘されています。

 1966(昭和41)年に出た『セロひきのゴーシュ』(31)新装版のあとがきで、瀬田貞二は〈宮沢賢治の傑作〉は〈質の高いイメージにとんで〉いるので〈なまなかの挿絵では及びもつかない〉が、この絵本によって〈ようやく本文と絵とが齟齬することのない完全な一体、つまり、みごとな絵本になってあらわれた〉と語っています。ゴーシュをはじめ、登場する動物たちをあたたかい水彩画で描いた作品は、その後の賢治童話の絵本化に大きな影響を与えました。

 一方、司修の同作(32)は、ゴーシュの表情を正面から極力描かないように配慮しており、茂田井のものとは対照的に、ゴーシュの抱くさまざまな感情・表情をできるだけ読者に想像させるように工夫している様子が感じられます。

(4) 雪渡り、どんぐりと山猫

  佐藤国男の版画が美しい『雪渡り』(33)は、子狐の紺三郎ら狐と、人間の兄妹である四郎、かん子の物語です。原作中、〈堅雪かんこ、しみ雪しんこ〉と歌われているのは岩手のわらべ歌であり、民話的な作品の特質が佐藤の版画にとてもよく合致しているといえます。月や木など、すべてを擬人化して描いているところも、佐藤ならではの特徴といえるでしょう。

 さらに、同じ作者による「どんぐりと山猫」(34)は、山猫からはがきをもらって喜んでいる一郎が表紙。絣の着物を着た、純朴な少年・一郎がイメージされます。ページをめくると、内表紙にはどんぐり裁判に頭を悩ませている山猫が登場。日々、決着のつかない裁判につき合い、悩み続ける様子が象徴的に表現されているようです。

 なお、同じ版画風の絵で、「どんぐりと山猫」を力強く描いたのが畑中純(35)です。本作では、一郎は学生服に学帽の装い、山猫は〈立ってとがっ〉た耳がより強調されています。原作の本文そのものも手描き文字として版画化しているところに、規格化することのできない賢治の作品世界を表象しようという作者の意図を見てとれます。

(5) 風の又三郎

  「風の又三郎」は賢治童話を代表する作品の一つであり、さまざまなメディアで繰り返し再創造されてきました。未完にして生前未発表に終わったためか、この童話については賢治作品のなかでもひときわ謎が多いといわれています。短編ではないことも理由かもしれませんが、他の賢治童話に比べて絵本化されたものは少ないといえます。

 小林敏也や伊勢英子らの作品もありますが、目を惹くのは吉田佳宏デザインによる『風の又三郎』(36)です。〈文字の絵本〉と題されるように、原作の本文をさまざまな活字で配置し、それをもって「風の又三郎」の世界を表現しようとした、他の絵本とは異質なものです。絵は付与されているものの最小限度に抑えられ、文字を絵のように配置し、原作が持つ日本語の力強さを表現しているのが特徴といえるでしょう。

(6) その他の絵本作品

  「銀河鉄道の夜」を絵本化したのが藤城清治(37)です。銀河をゆく不思議なファンタジー空間を独特のタッチで表現。謎めいた天気輪の柱や三角標が色鮮やかに配置され、モノクロの影絵で配置された人物と対照を為しています。

 津田櫓冬(38)、村上勉(39)、片山健(40)がそれぞれ取り組んだのが「狼(おいの)森と笊(ざる)森、盗(ぬすと)森」。見どころの一つはやはり異界に存在する山男ですが、擬人化された人間風の山男、あるいは完全に人間とは異なる存在としての山男など、それぞれの山男像に三者三様の読みが垣間見えて興味深いものがあります。飯野和好の『山男の四月』(41)は、表紙に山男が登場します。

 他にも、象のエネルギーが画面に満ちあふれた荒井良二の『オツベルと象』(42)、シンプルだが月の輪熊の生命感・躍動感が伝わるあべ弘士の『なめとこ山の熊』(43)、鹿(しし)踊(おど)りという郷土芸能の始まりの風景を精細なタッチで描いた、たかしたかこの『鹿踊りのはじまり』(44)、ベーリング行きの列車の車中を豊かで濃密なイメージとして表現した木内達朗の『氷河ねずみの毛皮』(45)などがあり、注目に値します。

 さらに、賢治のデクノボー精神を描いたとされる「虔十公園林」や「気のいい火山弾」もあり、前者は伊藤秀男(46)の人間味あふれる虔十が余すところなくその世界を伝え、後者は田中清代(47)のベゴ石が何とも重厚かつ存在感のある姿を描いています。

 やさしい筆遣いで賢治の花鳥童話に絵を添える岩崎ちひろ(48)の画風は実にあたたかく、賢治作品に対する愛情を感じさせるものとなっています。

3.マンガにおける賢治童話

  マンガの世界でも、賢治は積極的に作品化されてきています。

 その先鞭をつけたのは、ますむらひろしです。

 山形生まれのますむらが賢治童話に魅せられ、その世界を画にするまでの苦闘の物語は『イーハトーブ乱入記』(ちくま新書)に詳しく描かれています。絵本のように、限られた画面数で原作を描くのとは異なり、ますむらのマンガでは賢治の言語表現をできるだけ忠実に拾い、すべての場面をマンガとして描いているのが特徴です。こうした作品化は、賢治の語彙では表現されていないもの、あるいは造語の多い賢治の謎に包まれたものを絵画化することが求められ、その意味においてますむらの作品解釈がより大きく問われることになります。

 例えば、「グスコーブドリの伝記」(57)に描かれている〈歴史の歴史ということの模型〉。これは、クーボー大博士の〈とって〉の回しようによって、〈奇体な船のような形〉になったり〈大きなむかでのような形〉に変わる奇妙な模型(教材)で、賢治の歴史観や空間認識が感じられる重要なアイテムです。模型を操作したのち博士が、〈そこでこういう図ができる〉といいながら、黒い壁に〈込み入った図をどんどん書〉く原作の興味深く印象的なシーンを、ますむらは想像力豊かにマンガ化しています。

 その他にも、「銀河鉄道の夜」(58)に登場する〈天気輪の柱〉や〈三角標〉、「風の又三郎」(60)に出てくるおかしな風貌の少年・高田三郎、「やまなし」の〈クラムボン〉など、その描かれ方に見どころはたくさんあり、ますむらの作品解釈が光ります。賢治をマンガ化した作家として、永島慎二(「どんぐりと山猫」ほか)(64)や林静一(「オツベルと象」)、鈴木翁二(「祭の晩」)、手塚治虫(「やまなし」)(以上、65)、松本零士(「水仙月の四日」ほか)(66)らがいます。それぞれよみ比べてみてはいかがでしょうか。

4.紙芝居、アニメーションにおける賢治童話

  生前、一部の詩人などを除き、あまり有名ではなかった賢治の名前が初めて強く押し出されたのは、昭和10年代の演劇と映画によるものと考えられています。こうしたメディアを通じて再創造された作品に、「風の又三郎」がありました。

 特に、冒頭の歌〈どっどど どどうど どどうど どどう〉で始まる映画は、当時大人、子どもを問わずブームめいた盛り上がりを見せたそうで、賢治没後、人と文学の受容に大きな影響を与えました。賢治といえば、「雨ニモマケズ」とともに「風の又三郎」というイメージが定着したと考えられます。

 これらを背景として、紙芝居の分野でも賢治童話が作品化されていきます。その一つで比較的早いものに、1945(昭和20)年12月に刊行された「風の又三郎」(68)があります。脚色を玉井直文、画を伊藤文乙が担当、全体を18画面で構成しています。原作では、高田三郎は標準語を話す〈赤い髪〉の少年で、〈変てこな鼠いろのだぶだぶの上着を着て白い半ずぼんをはいてそれに赤い革の半靴〉をはく存在です。村童とはかなり差異化された表現がなされていますが、本紙芝居で描かれる三郎は嘉助や一郎と同じ、いがぐり頭の村童そのものになっています。

 他に、紙芝居では「キツネノゲントウ」(69)(原作「雪渡り」)が、タイトル通り仕掛けを巧みに用いて幻灯を表現、動きのある画面を構成しています。

 また、アニメーションでも賢治は多く取り上げられてきています。最も早いのが、影絵アニメーション「セロひきのゴーシュ」を作った日本映画社の田中喜次。1949(昭和24)年5月、19分ものとして完成、時間の制約か鼠の親子のエピソードはカットされているそうです。そののち、ますむらひろしの猫のキャラクターを活用した杉井ギサブローによる「銀河鉄道の夜」(72)(セル、1985年)、岡本忠成の「注文の多い料理店」(セル、1991年)などが続きます。音楽や動きを伴って、賢治の世界がより多彩に再創造されるようになっていったのです。

執筆:遠藤 純(大阪国際児童文学振興財団)

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