第45回「大正時代末の大阪の雑誌」へ  第47回「平成13年度新収資料展」へ
第46回大阪資料・古典籍室1小展示
平成14年2月1日(金)〜3月30日(土)


近世大坂の大火





 江戸で火災が頻発した事はよく知られていますが、江戸時代の大坂もしばしば大きな火災に見舞われました。
 中でも「三度の大火」といわれる、享保9(1724)年の「妙知(智)焼け」、天保8(1837)年の「大塩焼け」、そして文久3(1863)年の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」の3大火は、大坂三郷の広い範囲を焼き尽くし、甚大な被害をもたらしました。
 当時、災害の状況は、「かわら版」という木版の一枚刷りによって広く伝達されました。今回は、大坂の火災の模様を伝えるそれら「かわら版」を中心に、近世大坂の火災を記録した資料を見てみたいと思います。



《展示資料》



1.「三度の大火」


・「火之用心 大阪今昔三度の大火」
『保古帖』第4巻より 045-160


 文久3年の大火に際して出版されたかわら版。享保9(1724)年の「妙知焼け」、天保8(1837)年の「大塩焼け」とあわせて3つの大火の焼失地域を図示し、火災への注意を呼びかけるもの。現時点の災害だけでなく、過去の災害を合わせて出版するスタイルは、大坂のかわら版の特徴である(『ニュースの誕生』p40)。


・『大阪今昔四度の大火』 328-340
高橋五之助 明治42(1909)年


 時代は下って、明治42年に起こった「北の大火」の折に出版された一枚刷り。江戸期の3大火についての記事は「火之用心 大阪今昔三度の大火」の翻刻である。


●「妙知焼け」 享保9(1724)年


 享保9(1724)年3月21日午の刻(正午)、南堀江橋橘通三丁目(現・西区南堀江二丁目)金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火、折からの強風に煽られて燃え広がり、翌22日申の刻(午後4時)に鎮火するまで、大坂三郷の実に3分の2にあたる408町が灰燼に帰す大惨事となった。
 なお、この火災の際に東西の両町奉行所も焼失したが、これを機に西町奉行所は、それまでの東町奉行所の隣から、東横堀東岸の内本町橋詰町北側(現・中央区本町橋)に移転した。


・『摂陽落穂集』巻八 浜松歌国著 写本 378-34
「大坂大火の事」


 摂津国とくに大坂の名所旧蹟・風俗・市井の出来事などを綴った随筆。著者浜松歌国(1776〜1827)は、読本・随筆・歌舞伎作者で、大坂の風俗や文芸・演劇の記録者としても有名。


・『大坂北組粉川町御触書』(正徳4年5月ヨリ寛保元年) 文書-42-2


 大坂北組・粉川町(現・中央区)の町方文書。粉川町における妙知焼けの被害状況をまとめた「大坂火変記」を付す。


●「大塩焼け」 天保8(1837)年


 天保8(1837)年2月19日辰の刻(午前8時)、大塩平八郎の蜂起に伴い、大塩の屋敷より出火。21日夜まで燃えつづけ、焼失区域は天満・船場・上町のほぼ全域、総町数115町にのぼった。


・「大阪大火」
『保古帖』第11巻より 045-160


 大塩焼けの町別被害状況をまとめたかわら版。


・「大阪大火普請家数録 前編・後編」 天保12(1841)年
『大阪万番附総集帳』 027-8


・『大阪大火一件写』 写 明治時代 石崎328-3


●「新町焼け」(新町橋焼け・五幸町の大火) 文久3(1863)年


 文久3(1863)年11月21日戌の刻(午後8時)、新町橋東詰五幸町(現・中央区南船場)より出火、強い西風によって東に燃え広がり、23日午前9時ごろようやく鎮火、船場・上町を中心に約150町が焼失した。


・『文久三年南舩場ヨリ城南ニ至ル大火ノ図』 文久3(1863) 378-452


・『文久三年大阪大火記録』 子-327


・『大阪大火之図 本しらべ』 [文久3(1863)] 枚-135


2.その他の大火


●「道頓堀大火」 天明元(1781)年


 天明元(1781)年3月13日夜、道頓堀にて出火。道頓堀の芝居小屋からはしばしば火災が発生し、『摂陽見聞筆拍子』によると、その数は、天明元(1781)年〜文化8(1811)年までの32年間に5回に及ぶという。


・『大坂奇珍泊』第二 328-6
「道頓堀大火の事并焼死人名の事」


 安永末〜天明初の大坂の巷間に伝わる奇談珍説を収録したもの。


・『摂陽見聞筆拍子』巻七 浜松歌国著 写本 378-40
「道頓堀火災の事」


 別名を『摂陽続落穂集』『摂陽落穂集後編』とも。『摂陽落穂集』の続編の随筆集。


●「堀江・島之内大火」 寛政3(1791)年


 寛政3(1791)年10月10日寅の刻(午前4時)、南堀江・伏見屋四郎兵衛町(現・西区南堀江)より出火、翌11日卯の刻(午前6時)鎮火。南北堀江、島之内を焼き尽くし、焼失町数は87を数える。
 寛政年間は、この「堀江・島之内大火」の他にも、寛政元(1789)年「上町大火」、寛政4(1792)年「中船場大火」と立て続けに大きな火災が生じ、この3つの大火による焼失町数を合わせると大坂三郷の3分の1に達する被害を受けた。


・『摂陽奇観』巻之四十一 浜松歌国編著
寛政3年10月10日 「伏見屋四郎兵衛町出火」の条
『浪速叢書』第五、浪速叢書刊行会、1928年(035-5#)p120-121。


・「寛政三年十月伏見屋四郎兵衛町ヨリ出火有之及大火当町不残類焼仕候ニ付書上ケもの其外心覚之扣一件」
[出火届書綴] [寛政年間] 菊-124


 大坂南組・菊屋町(現・中央区心斎橋筋)の町方文書。寛政3(1791)年の「堀江・島之内大火」の記録。この大火によって菊屋町を含む島之内は、ほぼ全域が失われた。


●天保5(1834)年7月11日の大火


 天保5(1834)年7月11日子の刻(午前0時)、堂島新地北町(現・北区堂島中)より出火、30町、3カ村に延焼し、翌12日辰の刻(午前8時)鎮火。


・『天保五年七月十一日堂島新地の大火』 378-928


・「大坂大火之略記」
『保古帖』第13巻より 045-160


●「おちょぼ焼け」 弘化3(1846)年


 弘化3(1846)年11月3日子の刻(午前0時)、曾根崎新地一丁目より出火、東天満まで延焼、48町を焼く。遊女おちょぼの放火が出火の原因となったため、この名が付けられた。


・「大阪天満大火」
『保古帖』第12巻より 045-160


●「上町焼け」 嘉永5(1852)年


 嘉永5(1852)年12月5日、東横堀・材木町(現・中央区)より出火、東は谷町、北は槍屋町まで延焼。この年は4月21日「道頓堀焼け」、11月19日「中船場焼け」と大きな火災が相次いだ。


・『嘉永五年大坂上町大火図』 378-624


3.消防制度等


・「大阪三郷火消纏づくし」
『浪花みやげ』第2冊 027-52


 江戸では「いろは」47組の町火消の活躍が知られるが、大坂では「雨」・「波」・「滝」・「川」・「井」という水にちなむ五印のもとに町々が組織され、消火活動にあたった。展示資料は、各印の纏(まとい)を描いたもの。纏の図の上には、火の見梯子が置かれた町の一覧がある。


・『街廼噂』(ちまたのうわさ)第五 平亭銀鶏著 天保6(1835) 378-456


 数々の大火をふまえて防火に関する触が頻繁に出されたが、町内での用水桶の設置はそのひとつである。図は大坂の町で用いられた用水桶。



《参考文献》


・『大阪市史』第1・第2、大阪市参事会、1913年・1914年(328-9)。
・『東区史』第2巻 行政篇、東区役所、1940年(328-89)。
・『新修大阪市史』第4巻、大阪市、1990年(216.3-25N-4)。
・村田路人「近世大阪災害年表」『大阪の歴史』27号、1989年(雑2788)。
・『大阪市消防の歴史 大阪市消防発足20周年記念』大阪市消防局、1968年(433.5-215)。
・小野秀雄『かわら版物語 江戸時代マス・コミの歴史』(風俗文化双書1)雄山閣出版、1960年(070-297)
・木下直之・吉見俊哉編『ニュースの誕生 かわら版と新聞錦絵の情報世界』(東京大学コレクション9)東京大学総合研究博物館、1999年(070.2-87N)。