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第32回大阪資料・古典籍室1小展示
平成12年1月5日〜2月15日


契沖(けいちゅう)と円珠庵(えんじゅあん)



― 契沖300回忌によせて ―



 契沖は、学徳の高い真言宗の僧侶であり、かつ万葉集を中心とする古典の注釈、ならびに歴史的仮名遣の研究において画期的な業績を残した古典学者である。

 中世の伝統的な学問のあり方とは違い、古書を証するには古書を以てする実証的文献学的方法を採り、古典研究に新風を開き、『万葉代匠記』という大著を成した。
 




契沖の生涯


 契沖は、寛永17年(1640)尼ケ崎にうまれた。

 11歳で当時は大阪の郊外にあった今里の妙法寺に入り、13歳の時に剃髪して、高野山に上った。ここで10年間仏教を学び、23歳で大阪生玉の曼陀羅院の住職となった。

 しかし、数年を経ずに曼陀羅院を去り、諸国修行の旅に出た。

 30歳のころに、和泉の国に移り住み、最初の5年間は久井村の辻森家に滞在し、仏典や漢籍に親しみ、その後南池田村万町の伏屋長左衛門方に移り、その邸内に養寿庵という小庵を建ててもらってそこに住み、和漢書の研究に精励した。

 39歳の4月、この養寿庵を去って摂津の我孫子村に移住し、その翌年40歳のとき、今里の妙法寺に帰り、そこの住職となった。この妙法寺時代に、徳川光圀の知遇を得、水戸家の嘱をうけて、彼の主著『万葉代匠記』を書きあげた。

 その後、元禄3年(1690)51歳のころ、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退いた。円珠庵時代の契沖は、俗務に煩わされることなく、ひたすら著作と研究に没頭した。また、弟子の今井似閑や海北若冲ら門人の求めに応じて『万葉集』の講義も行っている。

 そして数多くの著作を残し元禄14年(1701)1月25日、円珠庵で62歳の生涯を閉じた。


契沖の生涯を記した資料としては、
元禄15年(1702)に安藤為章が撰した「円珠庵契沖阿闍梨行実」
同年に高野山の友人僧義剛が撰した「録契沖師遺事」
寛保3年(1743)に建立された契沖墓碑の五井純禎(蘭洲)の撰文
寛政2年(1790)に刊行された伴蒿蹊の『近世畸人伝』の「僧契沖」
寛政9年(1797)に中川昌房が編した『契沖事蹟考』 などがある。


 『円珠庵契沖阿闍梨行実』(えんじゅあんけいちゅうあじゃりぎょうじつ) 

元禄15年(1702)正月11日 安藤為章撰   『年山紀聞』 安藤為章著 刊 6冊   <041-342>
安藤為章は、『釈万葉集』編纂のため、徳川光圀の命により、元禄13年(1700) 大坂に下り、直接契沖の指導をうけた。
『年山紀聞』は、安藤為章の随筆で、和漢の文学、故実、典籍、伝記等にわたり、契沖の言説も多く書き留めている。


 『近世畸人伝』(きんせい きじんでん)

巻3「僧契沖 附門人 今井似閑 海北若冲 野田忠粛」  伴蒿蹊著 平安鷦鷯惣四郎等刊 寛政2年(1790)  <朝351-7>


 『浪花人傑談』(なにわ じんけつだん)  下 「釈契冲」 

政田義彦著 安政2年(1855)序  写 2冊  <351-256> 
契沖の伝記、「円珠庵契冲の遺跡」と題する挿画、五井純禎の碑文を並べたあとに円珠庵所蔵の遺書並びに遺物が掲げてある。




円珠庵


 円珠庵は契沖の隠棲所として、大阪東高津の餌差町(現在の天王寺区空清町)に建てられた。土地は信者が寄付し、建物は彼がかつて住んでいた和泉万町の養寿庵をそのまま移したものである。

 円珠庵が地誌や地図に載って名所として知られるようになるのは、国学が盛んとなって契沖の名が知られるようになる寛政以後である。


 『摂津名所図会』(せっつ めいしょ ずえ)   巻之三「僧契沖遺跡」   寛政8年(1796) 刊  <378-26>

名所として円珠庵が登場する最初のもの。


 『浪華の賑ひ』(なにわのにぎわい )  初編 「円珠庵」    安政2年(18550)刊   <378-144> 

”去る戌年”(1850年)の契沖百五十年忌の事が記されている。


 『摂津名所図会大成』(せっつ めいしょ ずえ たいせい)  巻3  「僧契沖遺蹟」   安政2年(1855)以後成る。

五井純禎の碑文、近世畸人伝、契沖自画、什物等を記載。  (浪速叢書 7巻) <035-5>


 『狂歌絵本 浪花のむめ(きょうかえほんなにわのうめ)  一    寛政12年(1800)刊   <378-122>




円珠庵時代の契沖の著作


 円珠庵時代の契沖は、万葉研究によって確立した古典研究の方法を駆使して多くの古典 の注釈を行ない、『厚顔抄』(記紀歌謡の注釈書)、『古今余材抄』(古今集の注釈書) 『勢語臆断』(伊勢物語の注釈書)、『百人一首改観抄』(百人一首の注釈書)、『源注 拾遺』(源氏物語の注釈書)などを書き上げている。

 また、歴史的仮名遣についての著作『和字正韻』、『和字正濫鈔』、『和字正濫通妨抄 』、『和字正濫要略』などを著し、当時の学界に大きな反響を与えた。  名所・歌枕についての研究書『勝地吐懐編』、『類字名所補翼抄』、『類字名所外集』 『勝地通考目録』なども著している。

 彼の学問的随筆『河社』、『円珠庵雑記』などもこの時期に執筆されている。  契沖の著述稿本や手沢本などは、没後、契沖遺書として円珠庵に留められた。

 契沖の著書で、生前に刊行されたものはごく少なく、少数の熱心な研究者に筆写され広 がっていくが、国学が盛んになる寛政のころより上梓されるようになった。     

 『勢語臆断』(せいご おくだん)  京都吉田屋新兵衛等刊  享和3年(1803)  5冊  <223.3-52>

元禄5年(1692) 秋頃成る。
享和2年(1802) 初めて刊行される。

 『和字正濫鈔』(わじしょうらんしょう)   大坂下山喜左衛門等刊 元禄8年(1695)   5冊   <275-2>

元禄6年(1693)成る。

 『勝地吐懐編』(しょうちとかいへん)   平安銭屋惣四郎等刊   寛政4年(1792)   2冊  <224.8-74>

元禄5年(1692) 成る。
寛政4年、伴蒿蹊が契沖稿本に補注校正を加え、序を付して板行する。

 『河社』(かわやしろ)   京都吉田四郎右衛門等刊   寛政9年(1797)   5冊   <041-284>

106の論考からなる考証的随筆。 元禄5年より7、8年ごろに成ったものといわれている。

 『円珠庵雑記』(えんじゅあんざっき)   江戸英平吉等刊   文化9年(1812)   1冊   <041-224>

随筆。古語・歌語・類語・語源等に関する研究書。 元禄12年(1699) 成る。




その後の円珠庵


 明治中期以後、契沖研究が盛んになり、円珠庵と契沖遺書の保存運動がおこる。  円珠庵と墓は、大正11年3月史跡保存物に指定され、また契沖遺書は散逸を防ぎ保存 の万全を期するために、同年6月本館へ寄託された。

 その後、円珠庵は昭和20年3月の空襲で焼失するが、大阪女子大学学長であった平林 治徳氏らの尽力により、昭和30年契沖阿闍梨顕彰会によって、現在の姿に再興された。


 『契沖阿闍梨』(けいちゅうあじゃり)  少年文学三拾二編  宇田川文海著  博文館 明治27年(1894) <352-5907>

 『大阪名勝図会』(おおさかめいしょうずえ)  巻の壹  文淵堂編輯・刊   明治36年(1903)   <378-35>

 『先賢と遺宅』  城戸久著  那珂書店  昭和17年(1942)   <724-39>  ( 府立中央図書館蔵書)




参考文献


『契沖』久松潜一著(人物叢書) 吉川弘文館 平成元年 <121.5-62N>
『大阪の和学』大阪国文談話会編(上方文庫3) 和泉書院 昭和61年 <152.2-473#>
『契沖伝』久松潜一著(契沖全集第9巻伝記及伝記資料)朝日新聞社 昭和2年 <222-109#>
『契沖全集』全16巻 岩波書店 昭和48-52年 <222-995>
多治比郁夫「円珠庵と円珠庵遺書」 『大阪府立図書館紀要』第9号 昭和48年 <099-403#>