第30回大阪資料・古典籍室小展示「入江昌喜200年忌・森繁夫50年忌著書展観」
更新日:1999年10月1日
第30回大阪資料・古典籍室1小展示
平成11年10月1日~11月16日
町人学者の心意気は、学問への情熱を熱く燃やしながらも、ために生業をおろそかにしない世にあまえぬ性根にあるといえよう。
天明・寛政頃、加藤景範と共に、大阪国学者の三羽烏と呼ばれた江田世恭と入江昌喜も亦町人が本領であった。
師を持たず、その研究姿勢では徹底して自立を貫いた姿勢は町人学者と呼ぶに相応しい。
今回は、町人学者の真髄とも言うべき入江昌喜翁と、後世入江昌喜の伝記をものした森繁夫の2人の町人学者の年忌にあたり著書等を展示紹介、その心意気の一端にふれてみたい。
入江昌喜著書目録
( ) 内は請求記号
● 久保之取蛇尾(くぼのすさび) (041-170)
活字版: 続日本随筆大成11巻
「語文」(小島吉雄解説)第17~18号に収載 大阪大学刊 (当館未所蔵)
● 真珠之船(久保之取蛇尾の改題) (041-360)
● 青陽唱詁 (224.7-120)(228-66)
活字版: 書物往来叢書 歌謡篇 (当館未所蔵)
日本歌謡集成 第5巻 (当館未所蔵)
● 春雨茗談 (992-114)〔写〕
● 竹取物語抄 (223.3-164)(223.3-212)
活字版: 校正補註国文全書 次編1 (当館未所蔵)
国文註釈全書12 (当館未所蔵)
竹取物語抄(明治23) (当館未所蔵)
● 異名分類抄 (276-54)
● 葦手書考〔手稿本〕 屋代弘賢著 入江昌喜亀頭 註 (甲和183)
活字版: 百家叢説1 (当館未所蔵)
● 殿村茂済詠草・記録 37 入江昌喜ぬしの書巻をミて写をく 殿村茂済編 (224-182)
● 竹とりの翁物語〔群書類従巻29への書き入れ本〕 (223.3-256)〔国立国会図書館蔵本の複写〕
● 幽遠随筆 (当館未所蔵)
活字版: 日本随筆大成 第一期第8巻 (914-1 府立中央蔵)
日本随筆大成 新装版第一期第16巻 (914.5-10N)
● 墨吉歌合 (当館未所蔵)
● 万葉類葉抄補闕 (当館未所蔵)
● 季寄悉註和田津海(きよせしっちゅうわだつみ) (当館未所蔵)
入江昌喜関係資料
● 入江昌喜のこと 肥田晧三著 昭和51年1月 吉川弘文館 (914.5-10N)
(日本随筆大成第1期16巻付録) (付録未所蔵)
● 入江昌喜翁 森繁夫/小寺純雄編 昭和19年5月 入江昌喜事蹟顕彰会刊 (織田文庫398)
● 森銑三著作集 第2巻 入江昌喜追悼文 中央公論社 (034-299)
第4巻 在津紀事に高安蘆屋との関係 (034-299)
● 入江昌喜の墨吉歌合 丸山季夫著 昭和54年7月 吉川弘文館 (152.2-441) (国学史上の人々)
● なにわ町人学者伝 谷沢永一編 昭和58年5月 潮出版社 (351-2585)
● 在津紀事 頼春水著 明治10年4月 頼又三郎刊 (041-188)
● 六帖詠草 小沢蘆庵著 文化8年 京:吉田四郎右衛門刊 (224.5-322)
● 入江昌喜の伝記 中野稽雪著 (洛味 第96号~100号 京都: 洛味刊) (当館未所蔵)
森繁夫著書目録関係資料
● 拾葉帖 (938-88)
● 続拾葉帖 (923-16)
● 名家筆蹟考 上・下 仲古谷友吉 昭和3年 (923-134)
● 田捨女 青雲社 昭和3年 (352-1817)
● 人物百談 三宅書店 昭和18年 (351-1433)
● 含翠堂考 大阪青年塾堂 昭和17年 郷土先賢叢書 第6篇
● 入江昌喜翁 森繁夫 小寺純雄編 昭和19年5月 入江昌喜事蹟顕彰会刊 (織田文庫398)
● 森繁夫書簡〔川田順あて〕 (甲和1138)
● 遺芳十種 森繁夫 昭和2年 (天 747)
● 名家伝記資料集成 全5巻 中野荘次補訂 思文閣出版 昭和59年 (351-2659)
● 小かがみ (当館未所蔵)
● 短冊 (当館未所蔵)
● 穿鑿小言 [国学者伝記集成補正] (当館未所蔵)
● 短冊写真入歌人伝記 [みおつくし] (当館未所蔵)
● 歌集流れ (当館未所蔵)
その他、雑誌「上方」「文芸春秋」「尚古」等に寄稿
森繁夫関係資料
● 大阪市立大学附属図書館所蔵森文庫目録 上・下 大阪市立大学附属図書館 1979-81年 (011-2433)
入江昌喜 享保7年~寛政12年 (1722~1800)
略歴
大阪石灰町(現中央区島之内1丁目)商家の生まれ、通称は榎並屋半次郎、長輔とも。号は獅子童・ 猊子・幽遠窟・浪速蘆父等と称した。
父道喜と3歳で死別、母永喜の影響で国学を学ぶ。契沖に私淑したが特に師はなく、書物・文献を集め独学で学び学問への志をたてるが兄の許しが得らなかった。24歳の時兄節休の死により家業を継ぐ。
宝暦9年昌喜38歳で妻妙意、長男が死亡、明和5年47歳の時一人娘永照が死亡、47歳頃養子昌久に家業を譲り、学問の道に入る。
高津に隠棲、亭号を幽遠窟と名乗り、53歳で「幽遠随筆」を著す。63歳の時養子昌久の急死により、家業をたて直すために旧業に復帰、養子を迎え7年間の指導後家業を養子に譲り隠棲する。
寛政7年春、妙法院宮真仁法親王より命を受け、「万葉類葉抄」16卷の補著にあたるが2年で完成。寛政11年「春雨茗談」 (未刊) を最後に翌12年死去、墓所は梅松院。
天明・寛政の頃、加藤景範・江田世恭と共に大阪の国学者の三羽烏と称された。江田世恭は通称富田屋八郎右衛門という町人学者で、人に対し手厳しく決して褒める事のない学者であったが、昌喜に対して「勤勉ここに至るか」と一目おいたという。
京都の歌人小沢蘆庵は唯一の友人といってよく、「六帖詠草」によると天明2年昌喜60歳からの交際である。「万葉類葉抄」は妙法院宮真仁法親王の相談を受けた蘆庵の推挙によるという。
森 繁夫 明治15年~昭和25年
略歴
明治15年岡山県生まれ、素封家森十郎男。号:小竹園(ささぞの) 。昭和25年西宮市甲陽園にて没。早稲田専門学校(現早稲田大学)卒。摂陽汽船・大阪商船等海運業の要職に就く。
短冊の蒐集は斯界の第一人者として、また、国学者歌人の筆蹟伝記の研究者として名高い。歌は佐々木信綱の門人として「心の花」に属した。
労作”先賢伝記資料”と名付けた人物伝のカ-ド記入は、大正の末頃から始められたと思われる。昭和4年6000枚、同5年6000枚等欄外に印刷され、膨大かつ貴重なものであるが、後年中野荘次氏の目にとまり、「名家伝記資料集成」と題して出版された。
蒐集された書籍類は、一括して大阪市立大学に寄贈、「森文庫」としてしられ、その全容は「大阪市立大学図書館所蔵森文庫目録 上・下」 (011-2433) としてまとめられている。