第4回大阪資料・古典籍室小展示「昭和前期関西私鉄の経営者たち」
更新日:1996年9月14日
第4回大阪資料・古典籍室1小展示
平成8年9月14日~10月30日

鉄道を中心に不動産業や流通業、レジャ-産業にまで手をひろげている日本の私鉄。私たちは日頃、世話にならない日はないといってよいくらいに私鉄会社が日常生活に浸透している。こうした私鉄の発展は世界でも類を見ないと言う。
日本独特の私鉄の形態をリ-ドしてきたのは主に関西の私鉄界である。昭和前期の経済恐慌に直面した関西の私鉄業界は生き残りを賭けて様々な事業に着手し、今日の発展の基礎をつくりあげた。
今回の展示では、当時の私鉄の個性豊かな経営者にご登場願い、昭和前期関西私鉄の状況を垣間みてみたい。
1.大礼奉祝交通電気博覧会『大阪附近交通図』 550-629#
京阪電気鉄道
新京阪線(現在の阪急京都線)や和歌山にも路線を有していた京阪。阪和電鉄(現在のJR阪和線)にも資本参加する関西を代表する大私鉄であった。太田光熈は、この時代の京阪の社長であり、彼の積極策は大阪と名古屋を結ぶ「名古屋急行電鉄」にまで及ぶ。
しかし、昭和初めの恐慌に遭遇して挫折。京阪はこれ以後、事業の整理縮小を余儀なくされる。
2.京阪電気鉄道株式会社 『鉄路五十年』(1960年) 686-25N
3.太田光熈 『電鉄生活三十年』(1938年) 352-3113#
阪神電気鉄道
現在でもライバル視されている阪神と阪急。そのきっかけは1920年に阪急が神戸線を開業させたことから始まる。昭和の初期にも両社の競争は激しく、旅客の争奪だけでなく、沿線開発などにも及んだ。そのために幾度となく両社の合併話がもち挙がることになる( 大阪電鉄連合会『大阪地方交通統制に関する報告書』〔550-999#〕)。
4.阪神電気鉄道株式会社 『輸送奉仕の五十年』 (1955年) 553ー365#
5.同 『阪神電気鉄道八十年史』 (1985年) 553-955#
6.「神戸地下線に就いて」『大大阪』第9巻第7号 (1933年) 雑537
近畿日本鉄道
近鉄は大小合わせていくつもの私鉄が合併して出来上がった私鉄である。1941年には大阪電気軌道(現在の大阪線)と伊勢方面に伸びていた参宮急行電鉄が合併して関西急行電鉄が成立した。この関急が1943年に大阪鉄道(現在の南大阪線)と合併、さらに1944年に南海鉄道と合併して成立したのが近畿日本鉄道である。
ここに紹介した金森又一郎は大軌の社長として名古屋への延伸に尽力し、種田虎雄は南海との合併後初の社長として近鉄を率いていった。
7.近畿日本鉄道株式会社 『50年のあゆみ』 (1960年) 544.4-155#
8. 同 『大鉄全史』 (1952年) 553-363#
9.大阪電気軌道株式会社 『大阪電気軌道株式会社三十年史』 (1940年) 553-319#
10.近畿日本鉄道株式会社 『信貴生駒電鉄社史』 (1964年) 544.4-349#
11.高梨光司〔編〕 『金森又一郎翁伝』 (1939年) 352-3325#
12.鶴見祐輔 『種田虎雄伝』 (1958年) 352-8501#
南海電気鉄道
昭和初めの恐慌は「堅実経営」とされていた私鉄業界を大きく揺るがした。私鉄各社は経費の節約に努める一方で、百貨店、自動車、土地経営で減収の緩和を図る(寺田甚吉)。
さらに南海はこの時期、阪和電鉄との激しい競争にさらされた。大阪・和歌山間のスピ-ド競争、南紀地方への観光客誘致。競争激化緩和のために両社の合併が成立するのは1940年である(『ダイヤモンド』昭和15年8月1日号〔雑415〕)。
13.南海電気鉄道株式会社 『南海電気鉄道百年史』 (1985年) 553-959#
14. 「昭和九年の電鉄界」『毎日新聞』 昭和9年1月5日付(複写)
阪急電鉄
沿線の住宅開発、タカラヅカの成功、阪急百貨店の開店。「阪急商法」という言葉を生み、日本の私鉄のあり方を決定づけたのが小林一三である。阪急を辞した後も商工大臣として第2次近衛内閣に入閣するなどの活躍をしている(「政治家」の一面を伺わせるものに『戦後はどうなるか』〔418-1189#〕、『事変はどう片づくか』〔418-1259#〕がある)。それだけに小林を題材にした資料は多い。
- 阪急電鉄株式会社 『75年のあゆみ』 記述編/写真編(1982年) 553-843#
- 同 『広報ポスタ-にみる阪急電車』 (1979年) 544.1-1467#
- 小林一三 『小林一三日記』(1991年) 289.1-372N#
- 同 『逸翁自叙伝』(1953年) 352-6571#
- 小林一三翁追想録編纂委員会『小林一三翁の追想』 (1961年) 352-5541#
- 阪田寛夫 『わが小林一三』 (1983年) 256-24497#