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「はらっぱ」 No.39 お話し会でほんとうにたいせつにしたいこと

児童文学作家・児童文学者
村中 李衣
きれいごとに縛られる時代に

 あたりまえだった人と人が直接に言葉を交わしあうことや、心を通い合わせることに、コロナ禍以降、かすかな不安やためらいが生じていることを、若い人たちを見ていて、私は強く感じています。

 先日、文章表現法という授業で自由に詩を書いてもらうと、あらびっくり。こぎれいにまとめた文章は書けるのですが、きれいごとに縛られて、言葉がどこかさびしそうなのです。なんで?と本人たちに聞いても、答えられない。ただ、「これじゃだめですか?」と問いたげな目を向けてきます。

 難しいことに(こんなわたしが)向き合うよりも、正しいことを教えてくれる存在に任せたい、という感覚が、彼らの言葉の端々に滲んでいました。
 「そんなこと、いつまで続けるつもり?」という問いが、私の中に浮かびます。しかし返ってきたのは、「わかんない。だって、この世界がいつまで続くかだって、わかんないでしょ?」という言葉でした。

 お話し会の話とは関係ないとお思いでしょうか。
 読み手や集まった人たちと同じ物語世界に心を浸らせる、あの貴重な経験を子どもたちに手渡そうとするお話し会と、自分のための詩を書くことの問題は、無関係でしょうか。

 「どうやって開催するのか」「準備するものは何なのか」「してはいけないことは何なのか」「時期に合わせた適切な選書方法は?」「子どもをひきつける導入とは?」「満足感をもって終了させる最後の演目は?」
 こうした真剣な問いの多くが、収まりの良い間違いのないカタチを、外に求めているように、私には思えてしかたありません。

お話し会の入り口は

 たとえば、お話し会の導入部分をふりかえってみましょう。
 お話し会が始まる前、グループの事前練習を見せていただくと、「鉄板ネタのおさらい」をなさっている光景に出くわします。賑やかな会場の雰囲気を物語世界へと切り替えるための、手遊びやわらべうた、短い言葉遊び。どれもよく考えられた方法です。手はお膝に、お口を閉じて、静かにこれから始まることに期待を持たせる。つまり「お話し会に集中させる」ための手段として、上手に機能しています。ただ、「集中させる」ことが最初の目的になると、そのあとの物語世界に対しても、「反応がよかったか、いまいちだったか」という、演じる側から見た態度の評価へと流れ込んでしまうことがあります。そうしたとき、物語世界をいっしょに生きているという感覚が、どこか遠のいてしまうことがあるように、私は感じています。

 いっしょうけんめいポスターやかわいいチラシを作り、小道具を工夫し、何度も練習を重ねて迎える本番。会場を見渡した瞬間に湧きあがる「うまくいくかな?」「子どもたちは喜んでくれるかな?」という心の高鳴りが、知らず知らずのうちに「カタチの踏襲」へとなだれ込んでしまうとしたら、それはあまりに惜しいことだと思うのです。

くらいくらい道は・・・・・・

 先日、月に一度、地元の幼稚園や保育園、こども園、子育て支援センターなどからのリクエストで開催している「出前お話し会」でのことです。公立保育園の園児さん約30名と保護者さん、未就園の子どもたちや赤ちゃんも加わり、なかなかに賑やかな集まりになりました。ところが私は、数日前から黄砂アレルギーで、狭い壁穴から隙間風が吹き込むほどにしか声が出ません。のど飴、うがい、吸入、アレルギー薬、マヌーカはちみつ、プロポリススプレー・・・・・・考えうることはすべて試しましたが、効果なし。この声で、どうやって一時間近いお話し会を乗り切ればいいのか。途方に暮れる間もなく、会は始まりました。茶色い網目模様のシートに座る子どもたちが、その日に限って、砂嵐舞う砂漠に降ろされた迷い子のように見えました。カーテンを引き、部屋の電気を消すと、くらい夜のとばりに包まれたようです。

 「むか~しむか~し、あるところに、くら~いくら~い、さばくがあってね・・・・・・」

 私の口から出たアメリカのストーリーテリング「くらいくらい」は、予期せず、砂漠を旅する「くらいくらい」へと姿を変えていました。 

いっしょに行こう

 しゃがれた自分の声が、足元の砂を巻き上げる風のように聴こえます。
クッション性のあるスリッパのかかとが沈む感触は、暗い砂漠を進んでいく足取りそのものでした。子どもたちは、私のざらざら声に導かれ、一歩一歩、ついてきます。そのとき私は、「声が出ない語り手」ではなく、会場のみんなといっしょに進む旅人になっていました。途中で、未就園の子どもたちの中から「こわい」というささやき声が聞こえました。「だいじょうぶ」と、小さくうなずこうとしたら、私よりはやく、園児さんの一人が言いました。
「だいじょうぶ、いっしょに行こうね」。

 差し出された手は、演じ手のどんな計らいも越えて、物語の旅へと私を連れ出しました。その日の「くらいくらい」の最後、革袋の口を開けると現れたのは、いつものおばけではなく、大きな、風おばけでした。
 ごぉーっと吹き荒れ、やがて遠くへ去り、静かなテントの中で、しずかなおはなしが始まったそうですよ・・・・・・で、おしまい。

 赤ちゃんも、おばあちゃんも、さっき「こわい」と言った子も、その子の手を握った園児さんも、黒いピアノも、角の欠けた壁時計も、みんなが砂漠のテントの中に在りました。評価の外で生まれる、こうした一回性の出会いもまた、私たちが物語を生きるうえで欠かせないものだと、あらためて思った次第です。

お話し会の選書について

 まだ字数がありますので、選書についても、少し触れておきます。
 季節に合った本を並べ、軽いものから入り、中心となる一冊を最後に置く。ごくオーソドックスな方法です。そのこと自体に異論はありません。ただ、読み進めながら、語り進めながら、子どもたちの息――物語の呼吸――を感じ続けられるかどうかが、どんなラインナップを組むか以上に大事になる場面があります。拙著『立ちあう保育』(ミズノ兎ブックス)の舞台となった山口県の小さな保育園で『チューチューこいぬ』(BL出版)を読んでいた時の例をお話ししましょう。

おっぱいは?

 ご存じのように、これは、3匹の仔イヌが、母犬とはぐれてしまって、いろんなもののおっぱいを探して回る、ナンセンス絵本です。消防自動車や、魚や、男の人や、人形・・・と仔イヌたちはどんどんおっぱいを求めて旅をしますが「おっぱいは、でません」。長新太の踊り出したくなるような絵と相まって、このがっかりフレーズが楽しく読者を誘います。思わず「で、ま、せん」と、読み手といっしょになって聴き手も声を上げてしまいます。そのみんなの息合わせに酔ったような感覚で、ついついいつも以上にハイテンションな読みになってしまうこともしばしばです。その日も、軽快なリズムをみんなの声が生み出し「おっぱいは?」「で・ま・せん」と調子のよい掛け合いがひびいていたのですが、「チューチュー、にんぎょう。」「おっぱいは、でません。」の次の見開きページに進んだときのことです。「チューチュー、き。」と私が読んだ後のことです。「おっぱいは」と語ると、子どもたちの中から「つち!」とくっきりした声が返ってきました。びっくりしてみんなの顔を見渡すと、声を出した子だけでなく、子どもたち全員が目を大きく開いてじっとこちらをみつめています。「ね?そうだよね?」とでもいうように。絵本の調和的なリズムを止めてぐいと前に出た子どもたちの生活の声。忘れることはできません。「そうか、そうやねえ」と言いながら次のページをめくりました。「チューチューやま」「おっぱいは?」と読み進めたとき、私はこの絵本のテキストにでなく、長新太さんにでもなく、目の前の子どもたちに問いかけていました。すると子どもたちの中の何人かが「かわ!」と声が上がりました。大地に愛され育っている目の前の子どもたちの姿が私の胸を熱くしました。

「ために」と「させる」から放たれて

 お話し会は、子どもたちのために、ものがたりの好きなおとなが誠実に準備を重ねて行われる試みです。だからこそ、「ために」と「させる」という縛りを、知らず知らずのうちに持ちかねない。そのことを、あえてお話しさせていただきました。もしもう少し詳しいことを知りたいと思ってくださるなら、『保育をゆたかに絵本でコミュニケーション』(かもがわ出版)、そして『立ちあう保育』(ミズノ兎ブックス)を手に取ってみてください。

 ものがたりの旅が、みなさんそれぞれのお話し会の中で、ゆたかに広がっていくことを願っています。

●本文中に登場した本●
・『立ちあう保育:だから「こぐま」にいる』 村中李衣/著 相沢和恵/著 ミズノ兎ブックス 2024.3
・『チューチューこいぬ』 長新太/さく BL出版 2000.10
・『保育をゆたかに絵本でコミュニケーション』 村中李衣/著 かもがわ出版 2018.5

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