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大阪府立中央図書館 国際児童文学館 「兎の耳」

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更新日:2015年11月28日

『兎の耳』
(大西麟:発行兼編集 兎の耳社) 第8巻第11号(昭和3年11月1日)※表紙・背表紙の記述。(奥付は12月1日)  縦22cm×横16cm 定価20銭

兎の耳8(11)

月刊児童雑誌。大正8年6月創刊。創刊号1,500部。もとは、名古屋におけるお伽口演の歴史に足跡を残す大西巨口(明治20~昭和46年)の主宰・発行だったが、大正9年7月から名古屋新聞社(現中日新聞社)が発行。いったん廃刊したのち、昭和3年6月復刊。このとき判型は四六判から菊判へ、発行は再び大西が主宰する兎の耳社へ変更された。

名古屋では、明治44年に伊藤呉服店(現松坂屋)で新年こども会が開催され、巌谷小波や久留島武彦が招聘されて主に得意先の子どもに口演童話を行っていたが、大正5年6月に亀山半眠・大西巨口によりお伽噺の会が中区の白山神社ではじめて広く一般に開催されるようになる。各地での反響が大きいことから、当時名古屋新聞社の記者であった巨口は、社をあげて〈名古屋新聞お伽団〉を組織し、お伽口演活動に力を注ぐ。その巨口が、大正7年創刊の雑誌『赤い鳥』に刺激を受け、子ども本位の雑誌を作ろうと思い立って発行したのが本誌である。

最盛期35,000部と言われるが、本誌は新美南吉が半田中学時代にさかんに投稿していた雑誌として知られる。特に昭和4年新年号については、南吉自身が日記に〈榎本茂久に「兎の耳」新年号を借りた。余の童謡「づいつちょ」がのつてゐたので、母、弟、父に見せた〉(「昭和四年自由日記」1月18日付)と書いており、自らの入賞を書き残している。しかし残念ながら当該巻号(昭和4年1月号)は現時点では発見されておらず、作品は埋もれたままである。ちなみに、このほど受入した本誌巻号は昭和3年12月号で、南吉作品が入賞する一つ前の巻号であった。

入賞の賞品として、南吉には巨口から書籍『三人呑兵衛』が送られてきたが、あまりに嬉しかったのか、南吉は同書に「蔵書番号第壱号」と自署。1月25日の日記には〈小学教員で余は一代を了るのか。余の理想は、希望は大芸術家だったのだ。小学教員と大芸術家。菊池寛は中学校を終えて新聞記者から現代文壇の一人者となった。福田正夫は師範を出て大詩人となった。けれど、それは例外だ。(中略)小学教員になるよりむしろ新聞記者になりたい。菊池寛、大西巨口の例もあるから〉という記述も見え、本誌および巨口が南吉に影響を与えていたことがうかがえる。当時南吉は16歳、代表作となる草稿「権狐」を書く約2年前にあたる。

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