夢を描く 夢をはこぶ 旅とのりもの いまむかし展

超特急の汽関車
※国際児童文学館所蔵『コドモノクニ』9巻12号(東京社 1930年)より
「超特急(ツバメ)の汽関車」:岡本帰一

期間:2012年10月10日(水)~12月28日(金)
休館:毎週月曜日(12月24日は開館、ただし翌25日は振替休館)、第二木曜日
展示場所:大阪府立中央図書館1階 企画展示エリア(12月28日まで)・展示コーナー (10月28日まで)

明治以降、鉄道をはじめさまざまな交通網の発達は、旅の目的や手段を多様化させました。
この展示では、欧亜連絡に関する旅行案内書や子どもの本に描かれたいろいろな旅やのりものを、
府立中央図書館の蔵書と国際児童文学館の蔵書よりご紹介します。

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・協力:小林 浩治・中川 正矢・(株)ヤマネ(鉄道模型展示)10月16日(火)~10月28日(日)



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はじめに

明治期の鉄道、戦後の自動車ブーム、高度経済成長期の象徴である新幹線、先端技術の結晶としてのリニアなど、〈のりもの〉はいつの時代も子どもたちの夢を乗せて走り続け、その図像はたくさんの絵本などを通して描かれてきました。
のりものを描く物語の歴史は、鉄道や自動車などの発達・普及の歴史と大きく関連しています。いうなれば〈のりもの〉は、日本の近代化や教育の歩みとも深くかかわりながら、明治・大正・昭和を生きる人々の暮らしの風景(ときには未来の都市モデルや夢まで)を描いてきたといえます。
この展示では、明治以降、子どもの本に登場するさまざまな〈のりもの〉を取り上げ、ご紹介するものです。旅のイメージを重ねつつ、子どもたちに夢を運んできた数々の作品をお楽しみください。

A.鉄道と教育
A-1 『地理教育鉄道唱歌』

〈汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり♪〉で始まる『鉄道唱歌』。
1900(明治33)年に第1集が作られ、同年に第5集(334番)まで刊行されました。明治期の国家事業であった鉄道の敷設と普及に乗じて当時を代表する流行歌となり、模倣や亜流も大量に出版されて、子ども・大人を問わず広く親しまれたと言われています。
〈地理教育〉とあるように、当初は子どもの地理学習のために作られたもので、全国の各沿線をめぐるリズミカルな歌詞には、土地の風土、名産、伝説、由来などがうまく盛り込まれています。こうした作品が生み出され、流行した背景には、当時の教育との関連があるようです。
明治初期、国内外の激的な変化に伴い、国外情勢についての知識や情報に関心が高まり、福沢諭吉『世界国尽』『西洋事情』などが熱読されました。少年・少女雑誌でも、〈内外彙報〉〈海外彙報〉といった国外情勢を伝える記事欄が常設され、当時、子どもたちに世界の動向を知らせることが社会的役割として存在したことを感じさせます。
同時に、学校教育のなかで独立教科としての地理教育が行われ、子どもが自らの生活圏(郷土地理)から国内(日本地理)、さらに国外(外国地理)へと学習するプロセスが確立されていきます。いうなれば、世界へ目を拓かせるための学習内容でした。
こうした背景のなかで、各地の地理を軽妙なリズムで歌いながら覚えることのできる『鉄道唱歌』は誕生。子どもだけでなく、大人にも支持されていきます。殖産興業・富国強兵など、明治政府が欧米列強に比肩するために推し進めた教育施策の一環として、地理教育は見いだされ、また方向づけられていったのです。

B.のりものと絵本の近代化
B-1 「赤本」とのりもの

日本で初めて鉄道が開通(新橋・横浜間)したのは、1872(明治5)年のことです。正式営業運転の当初は、一日9往復、両駅を53分で結んだと言います。乗車運賃が高額であったこともあり、開業まもなくは客足も少なかったものの、次第に大きな話題となり、翌年には大きな利益を計上しました。

1900年代初頭には前述『鉄道唱歌』などもヒットし、鉄道は庶民の間に浸透しはじめます。こうしたなか、汽車や電車などの〈のりもの〉は子どもたちにも人気となり、たくさんの絵本で描かれるようになりました。
例えば、明治の末年、書店のほかに夜店や露天などでも広く売られていた大衆的な「赤本」でも<のりもの>は多く描かれています。この頃、既に鉄道に対する子どもの関心が高かったことがうかがえますが、飛行機、飛行船、自動車なども、その発達の歴史と符合する形で、絵本などで積極的に図像化されたといえるでしょう。

B-2 絵本の近代化とのりもの

ところで、大正期から昭和にかけて、絵本の世界では二つの大きな雑誌が誕生します。一つは、戦前を代表する芸術的絵雑誌『コドモノクニ』(大正11年創刊、東京社)です。童画の世界を切り拓くことになる武井武雄、岡本帰一、本田庄太郎、初山滋、清水良雄らが、際立ってモダンな色調とデザインのなかに抒情性を盛り込み、それまでとは一線を画す芸術的な雑誌として誕生させました。のりものは、伊藤孝、鈴木武、安井小弥太らが色彩豊かに描画。鉄道のあるシーン・風景をさまざまに描き、その美しいフォルム、精緻な図解は当時の読者を魅了しました。

もう一方は、『観察絵本 キンダーブック』(昭和2年創刊、フレーベル館)です。1926(大正15)年の幼稚園令で保育項目に「観察」が加わると、フレーベル館は「観察」を重視した雑誌作りを標榜。抒情・芸術という『コドモノクニ』のめざした柱とは対照的に、科学的叙事的絵本をめざして幼稚園への直販方式を採用しました。そのなかでも、のりものは繰り返し取り上げられ、ときには「リョカウ」(旅行)や「トウキャウ」(東京見物)など、旅への夢や憧れとともに描かれていきます。

このように、明治から大正・昭和にかけて絵本は近代化を果たし、そのなかで〈のりもの〉は時代を超えて子どもたちに提供され、親しまれていったのです。

C.子どもの本に見る高度成長期の交通

1950~60年代の高度経済成長期には、交通事情も大きく変化しました。名神・東名高速道路の開通に象徴されるモータリゼーションの進展、東海道新幹線の開業を始めとする鉄道の高速化、また、空の世界では旅客機利用の大衆化時代の幕開けなど、旅行における移動手段も様変わりしつつありました。
子どもたちにとっても、そのような新しいのりものはあこがれの的であり、雑誌の特集や絵本の題材として数多く取りあげられました。このコーナーでは、それらの中から視覚的に楽しんでいただけるものを中心にご紹介します。この時代が持っていた未来への期待が、資料から感じ取ることができます。

D.1970年代ののりものブーム
~SL・スーパーカー・ブルトレ~

1970年代には、子どもたちの世界で3回大きなのりものブームがありました。まずは‘70年代前半に蒸気機関車を追うSLブームが起こりました。これは、全国で蒸気機関車が廃止されていく中で、子どもだけでなく多くの大人も別れを惜しみました。
次に、‘70年代半ばに池沢さとし作「サーキットの狼」の大ヒットに伴い、スーパーカーが爆発的人気になりました。その影響は書籍だけでなく、清涼飲料水の王冠の裏にデザインされたり消しゴムが販売されたりもしました。
そして、‘70年代の終わりには寝台特急(ブルートレイン)の撮影が流行し、ブルトレブームと称されました。ただ、寝台特急は夜間に運行されるため、深夜に子どもたちが撮影に出かけることにより社会問題にもなりました。
このコーナーでは、その時期に出版された関連資料をパネルとともに展示します。

E.欧亜連絡の夢-シベリア鉄道に乗って

宮脇俊三『シベリア鉄道9400キロ』は、その書き出しで戦前の時刻表に載っていた「欧亜連絡欄」に触れ、シベリア鉄道が「特別のなかの特別の人たちのみに(乗ることが)可能な」「霞の奥の奥の夢幻のかなたの存在だった」と書いています(7-9頁)。
『日本国有鉄道百年史 第8巻』によると、1911(明治44)年3月にシベリア経由の欧亜連絡運輸を実施。翌年には世界を一周する国際連絡運輸が開始されます(『日本交通公社七十年史』)。
しかし、この国際連絡運輸も第一次世界大戦とロシア革命により1920(大正9)年3月に廃止されます。ソ連との国交樹立により1927(昭和2)年に再開したものの、第二次世界大戦と冷戦により、「欧亜連絡欄」は時刻表から姿を消すことになりました。
今年2012年はこの国際連絡運輸開始から100周年に当たります。

45 『世界旅行万国名所図絵』 (青木恒三郎/著 青木恒三郎 1885-1894年)【290.9/291N】
明治の10年代に作成された海外旅行案内書です。
海外旅行が夢のまた夢の時代に、誰もが居ながらにして世界を周遊できるものとして書かれた本です。
全7冊で、第1巻がアメリカ、第2-4巻がヨーロッパ、第5巻がアフリカと太平洋諸島、第6-7巻がアジアで構成されています。

46 『汽車汽船旅行案内』第216号(復刻 明治大正時刻表 新人物往来社) (庚寅新誌社 1912年8月)【686.5/40N/[6]】
1912(明治45)年6月にシベリア鉄道を経由し、ヨーロッパを結ぶ国際連絡運輸網に日本を繰り込んだ時刻改正が実施されました。
大正に改元した8月にでた時刻表には「欧亜連絡時刻欄」が設けられており、モスクワおよび現在のサンクトペテルブルグまでの時刻が記載されています。

47 『公認汽車汽船旅行案内』第246号(復刻 明治大正時刻表 新人物往来社) (旅行案内社 1915年3月)【686.5/40N/[7]】
同号の付録です。
裏側に「欧亜鉄道連絡図」と「東亜鉄道連絡図」が記されています。

48 『Cook’s Continental Time Table and Steamship Guide』 (THOS.COOK&SON 1923)【550/24/#】
1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発し、続く1917(大正6)年のロシア革命により、シベリア鉄道を経由する国際連絡運輸網は一時途絶えることとなりました。
1923年に発行されたトーマス・クックの時刻表においても、「Tokio」の記載された「SIBERIA,MANCHURIA,AND CHINA」の項目がありますが、「PRE-WARSERVICES」と記されており、空白の多い頁になっています。

49 『西伯利経由欧州旅行案内』 (鉄道省運輸局 [1929年])【367/177/#】
ソ連の建国と、日本との国交樹立により、1927(昭和2)年から連絡乗車券の販売が再開されました。
鉄道省の発行したこの本には、ヨーロッパに行くのに船と比べて安く、「沿線は四季の景色に富み、車窓に去来するさまざまの風俗、興味ある動植物、豊富にして廉価なる食物のかずかず等旅情を慰むるに足るもの多く」と書かれています。
乗車券と寝台車の予約、運賃の概算、食堂車と駅構内の食堂、チップなど乗車に必要な基本的な事項の他に、経路の主要な都市案内が記載されています。
ちなみに東京からパリまでの運賃は、一等で630円、2等で430円、3等で240円となっています。

50 『時間表』第16巻第2号 (鉄道省/編 日本旅行協会 1940年2月)【686.5/104N】
1940(昭和15)年の「欧亜連絡」欄です。
「日本・莫斯科・羅馬・伯林・倫敦・巴里聯絡」と書かれています。
午後3時に出発する特急に乗って東京を出発すると、13日後の午後9時25分にパリに到着しました。

F.学生の旅-修学旅行

修学旅行は日本独特の旅行形態であるといわれています。
その修学旅行の始まりは1886(明治19)年の東京師範学校とされており「行軍旅行」という名前のとおり、元来は生徒・学生の心身を鍛練するためにはじめられたものと言われています。修学旅行には、「兵式体操」と「学術研究」と2つの要素が結合されていました。
白幡洋三郎『旅行ノススメ』によると、日露戦争以降、年齢・学年・教育段階によって、近郊の自然観察や風景探勝の遠足(小学生)、地理・歴史を含む都市の近代装置・文明施設の見学(中学生)、大陸の戦場をめぐる長期の修学旅行(師範学校・高等学校)の3つに区分できるといいます。
白幡氏の指摘どおり、中学生向けの修学旅行案内書は産業の発展の要素が記され、また、師範学校生が大陸を旅した記録も残されています。

51 『学生必携修学旅行案内』 (八木奘三郎/著 博文館 1905年)【377/701/#】
「緒言(はしがき)」で、著者の八木は、修学旅行が修学の助けになるとともに「身体の強健を致す可きもの」と述べ、近年諸学校において修学旅行が行われていることは、「文明の好風習」であると、表明しています。
なお、小中学校生は、まだ専門の授業を受けていないためになかなか修学旅行が実行できないので、この書を著した、と言います。
地域は、関東地方で、「世の学生諸氏よ請ふ試みに本書を懐にして関八州を巡れ」と呼びかけています。

52 『京畿地方修学旅行案内』 (八木奘三郎/著 博文館 1908年)【377/703/#】
『学生必携修学旅行案内』の姉妹版ともいうべき本で、摂河泉の他、山城・大和・紀伊の近畿地方を対象とした修学旅行用の案内書となっています。
「緒言(はしがき)」の最後に「若し本書を手にして五畿一州の六国を巡れば、目睹する所の事物、自ら理解するを得可く、又発明する所これ有る可しと信ず」と言います。
関東を「ローマ」に例える一方で畿内を「ギリシア」に等しいとし、近畿地方は「新古を包括せる一大博物館の如し」である、と書いています。

53 『見学旅行案内(少年百科叢書第19編)』 (武田櫻桃/著 博文館 1912年)【377/817/#】
小中学生が「見学旅行」するための資料として編纂されたものです。さらに、受験のための地理の参考書にもなると書いており、普通の旅行案内書と違って単に名所旧跡を紹介した本ではない、と言います。
北海道から九州までを対象とし、産業やその地の繁栄の要素など広範に説明されています。
古い本のために「大阪」を案内した部分(191-198頁)が欠落しています。199頁に大阪の人は「民情優和にして怜悧、勤倹力行の風がある。一口に言えば実に平和的好戦士と言ふの外はない」と紹介しています。

54 『京都及附近修学旅行案内』 (川島元次郎/著 東枝書店 1914年)【371/29/#】
「中等程度以上の諸学校」の修学旅行のために編纂された旅行案内書です。
「倫敦、伯林、巴里等の案内記の体裁に倣い、歴史、地理、文学、美術、工芸、土木、経済、政治」とさまざまな方面から京都市を中心とした案内が記されています。 第二編が各地域の案内を記述しています。
大正期に刊行されたもので、明治天皇の陵墓である「伏見桃山御陵」が巻頭の口絵で紹介され、267頁から269頁にかけて昭憲皇太后の伏見桃山東陵とともに記述されています。

55 『修学旅行京都史蹟案内』 (西田直二郎/[ほか]著 宝文館 1920年)【371/35/#】
「中学程度の諸学校」の修学旅行のために編纂された旅行案内書です。よって記載される「名所」も、あくまで教育上から選択したものである、と書いています。
1頁から、1日案、1日半案などのモデルプランが記されています。
「少人数団体」で「健脚」な場合の「1日コース」は、京都駅を起点にして、三十三間堂→大仏・鐘(方行寺)→清水寺→知恩院→平安神宮→御所→北野神社→(金閣寺)→二条離宮(二条城)・東本願寺を車内から見て→桃山御陵となっており、北野神社で午後2時を過ぎていれば、金閣寺を省いて桃山御陵、となっています。

56 『韓国旅行報告 天津雑貨視察復命書』 (定留吾郎/[ほか]著 神戸高等商業学校 1906年)【540.5/31/#】
これは修学旅行の案内ではなく、夏季休暇を利用して修学旅行をした学生の報告です。2つの報告書が1冊の本にまとめられています。
1つは、韓国が日本の保護国となった状況下で、韓国の事情をよくわかっていない日本人の多くが事業に失敗する事例が多いために、彼の地がどのようなところかを視察した2人の学生による報告書です。
もう1つは、天津における日本製の雑貨の市況を調査したものとなっています。
ともに、商売のためのレポートであり、商業学校らしい「修学旅行」の報告書となっています。

57 『大陸修学旅行記』 (広島高等師範学校 1915年)【381/235/#】
1914(大正3)年に実施された広島高等師範英語部の生徒の修学旅行の記録です。引率した教官の所感以外はすべて生徒によって書かれています。
7月19日午後10時に広島駅を出発して、下関・門司から上海に上陸、南京や大連、旅順を巡った後、ソウルに入り、釜山から下関を経て広島に戻る21日間の修学旅行でした。

58 『公認汽車汽船旅行案内』第323号(復刻 明治大正時刻表 新人物往来社) (旅行案内社 1921年8月)【686.5/40N/[8]】
同号の付録で、『修学旅行京都史蹟案内』が出版された頃の路線図です。
紀伊半島を廻る紀勢本線はまだなく、四国も国鉄による路線網が確立されていません。
山陰本線も全線完成前の時期にあたります。

G.観光雑誌

この展示では2種類の戦前の観光雑誌を紹介します。
1つは、日本の観光産業の発展を目的に刊行されたもので、外国人旅行者を日本へ迎えるために、観光行動の分析や外国の観光政策が主に記載されています。
もう1つは、現在の「観光雑誌」にも通じる観光地を紹介するものですが、そこでは同時に日本人に観光のあり方や旅行の仕方を教えるものでもありました。
紹介する『国際観光』(『観光』)と『旅』の2つの雑誌はともに、アジア・太平洋戦争による影響を受け、その掲載内容を変化させていき、1943(昭和18)年には休刊することとなりました。
戦後は共に復刊し、特に『旅』は日本を代表する観光雑誌として2004(平成16)年までJTBで刊行されました(後、新潮社に引き継がれ2012年1月に休刊)。

59 『国際観光』創刊号 (国際観光協会 1933年2月)
大恐慌を経験した日本で、経済成長策として注目を浴びたものに、海外からの観光客を誘致するというものがありました。1931(昭和6)年には国際観光協会が創立されます。
『国際観光』はその機関紙として刊行されたもので、国際観光協会の「報道機関誌」として、また海外からの観光客を誘致するための業務研究資料の「発表機関誌」としての役割を担っていました。
雑誌には「観光国スイスの宣伝費」や「ドイツ観光事業の近状」、海外からの観光客に関する統計などが記載されています。

60 『観光』第3巻 第3号 (国際観光協会・日本観光連盟 1943年3月)
アジア・太平洋戦争の勃発とともに、海外からの観光客誘致が不可能となった後、国際観光協会の役割は以下のようなものとなりました。 「嘗ては協会最大の事業目的となつてゐた外客の誘致宣伝が全く揚棄され、その全機能は挙げて対外思想戦、宣伝戦に集約されるに至つたのである」(国際観光協会事務局長 横田厳)。
その言葉どおり、第3巻第1号から目次の頁に「観光とは皇国の光華を洽く中外に観(しめ)すことである」という八田嘉明鉄道大臣の書が掲げられます。
しかし、この『観光』の次号第3巻第4号(1943年4月)、「時局に要請に応え」るかたちで終刊します。

61 『旅』第1号(復刻) (日本旅行文化協会 1924年4月)【P29/1】
日本を代表した旅行雑誌の第1号です。
巻頭言で日本旅行文化協会の会長野村龍太郎が次のように述べています。
日本人は自然を除外して生きていくことはできず、「日常生活の蒙塵は自然によって洗滌される」。人は旅行によって自然と出会えるが、日本人の旅行は「唯単なる趣味として以外何等定見なきもの」である。そこで、「組織立つたる人間生活の考察、旅行方法の研究」「健全なる旅行趣味の育成」等々、日本旅行文化協会はこれらの基礎を確固とし、着々とその事業を進めていく、と。

62 『旅』第7巻 第8号(復刻) (日本旅行協会 1930年8月)【P29/1】
1930(昭和5)年10月に東京・神戸間で「燕」の運行が開始されます。これまでと比べて2時間40分も短縮された8時間55分で両都市を結ぶ、まさに超特急の幕開けでした。
この2か月前に発行された『旅』では「超特急を語る」と題した特集記事が組まれています。24-33頁には7月の3日と4日に実際された試乗会に参加した一般乗客の声が紹介されています。
「お昼の御飯は大阪の家でいただきまして晩は東京の叔母さんの家でいただけます。ありがたう」という感想もあり、東京と大阪の間が近くなったことを感じさせます。

63 『旅』終刊号(復刻) (日本旅行倶楽部 1943年8月)【P29/1】
1926(大正15)年11月の日本旅行協会への名称・組織変更を経て、1934(昭和9)年10月にジャパン・ツーリスト・ビューローに吸収合併され、あたらに日本旅行倶楽部が開設。『旅』はこの倶楽部から発行されることになりました。
  やがて、戦況の悪化の下で1943(昭和18)年8月の第20巻第8号で『旅』は一旦、終刊することとなりました。
この頃には表紙に「旅行指導雑誌」と書かれ、裏表紙には「戦時陸運非常体制 重点輸送 道を譲らう! 戦力増強の物へ 戦時緊要の人へ」というスローガンが刷りこまれます。

H.移民の旅

現在、多くの日本人が海外旅行を楽しみますが、これは1964(昭和39)年に海外渡航の自由化が実施されてからのことです。
それ以前、特に戦前において外国に行くのは、政治家や実業家、芸術家であり、庶民が海を渡ることとは、ほぼ移民によるものでした。
当館の所蔵する移民のための案内書を見ていると、移民先は政治の影響を受け、北米から南米へ移り、第一次世界大戦の後には信託統治した南洋諸島へ。さらに東南アジア「満洲」の地へと変化していきます。
彼らは「燃ゆる熱情と植民地に於ける成功を祈りながら、万難を排し、しかも不撓不屈の精神を以って故国を離れ」ていったのでしょう(『移民講座渡航案内』212頁)。

64 『米国渡航案内』 (飯島栄太郎/著 博文館 1907年)【395/59/#】
紳士・学生・実業家・労働者の渡米のための本です。
アメリカ合衆国の商工農業がますます発展し、労働を重んずる気質が比類のない地と紹介される一方で、学術教育の進歩も世界を凌駕する傾向にあるといい、この国に学ぶことが多いとあります。
渡米者を一般視察(政治家、学者、実業家、紳士)、学術研究(留学生)、労働営利(労働者、商人)に区分し、第一編で一般渡米、第二編で留学を取り上げています。
 第一編第五章「職業」では、職業の求め方や従事する職種、賃金が記載されています。

65 『南米渡航案内』 (水野龍/著 京華堂書店 1906年)【397/7/#】 北米における日本人移民の排斥が問題となる中で、渡航先は南米に向けられることになります。
著者の水野は、これまで北米への移民に関する本が多く、「余が茲に先登第一として南米移民に関する本書を世に寄与するは最も公栄とする所なり」と書きます。
ブラジルのコーヒー園の様子や各耕地の賃金や気温、44頁には衣料品や食料品などの物価を挙げ、生活費の目安が記載されています。

66 『南米渡航案内』 (横山源之助/著 成功雑誌社 1908年)【397/37/#】
1908(大正7)年の日米紳士協定で、日本からアメリカ合衆国への自由渡航は禁止され、ますます南米への渡航が注目されることになりました。
作者は『日本之下層社会』で知られる横山源之助で、ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルにおける生活費や賃金、日本人会について記載しています。
各国の「見込み多き日本商品」という項目もあり、例えばペルーでは織物類(絹ハンカチ、敷布)、日用品(一般食器類、落花生、ビスケット類)などと書かれています。

67 『移民講座渡航案内』 (日本植民協会/編 東方書院 1932年)【416/277/#】
「移民講座シリーズ」全6巻のうちの第6巻。移民する目的地が決定した後の具体的な手続きなどが記されています。
第一章が「各植民地渡航案内」で、満蒙・シベリア・中国南部から東南アジア、中南米、インド、トルコ、イランやエチオピアまでを含んでいます。
第二章が「渡航準備と移民地における一般心得」となっており、パスポートのこと、服装、携帯品、日常生活の心得まで記されています。
口絵には、移民船の三等室、三等食堂・浴室の写真が掲載されています。