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大阪府立中央図書館 国際児童文学館 資料展示「関西マンガ界の伝説 酒井七馬とその時代」【解説】

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更新日:2024年3月31日


 「関西マンガ界の伝説 酒井七馬とその時代」資料展示【解説】

はじめに

 1905(明治38)年、大阪にて生を受けた酒井七馬(本名:弥之助)は、大正期における新聞・雑誌の風刺漫画を皮切りに、黎明期のアニメーション界、戦中期の軍事慰問漫画、戦後の赤本や街頭紙芝居と、子どもから大人までを対象とした多くの作品を残しました。

 とりわけ、1947(昭和22)年に刊行され、手塚治虫との共著として知られる『新宝島』(育英出版=大阪)は、若き日の手塚を世に送り出すうえで大きな役割を果たしました。その革新的とまで言われるマンガ表現は、七馬が原案・構成を担当し、手塚の作画に拠るものですが、藤子不二雄・石ノ森章太郎・赤塚不二夫ら、当時マンガ家志望だった者にも影響を与え、戦後日本のマンガ史に輝くものとして名を残しています。

 しかし、無名だった手塚がその後〈マンガの神様〉と呼ばれていったのに対し、若き才能を見出し、発表の場を設けてデビューさせた七馬については、マンガ史からほとんど忘れ去られていきます。

 近年、七馬の仕事を再評価する動きがあることを承け、国際児童文学館と京都国際マンガミュージアムおよび京都精華大学国際マンガ研究センターは協力し、生誕110年を迎える節目に、その業績を掘り起こすとともに、振り返る展示を行いたいと考えました。現時点で把捉できる限りの創作活動の全貌を提示し、資料の発掘にも注力してまいりました。

 展示では、酒井七馬を育んだ関西のマンガ文化、またそれらの背景にある児童出版文化史上の貴重な資料も併せてご紹介します。戦後大阪の子どもたちを魅了したマンガや街頭紙芝居、児童出版文化の世界をお楽しみください。

 最後に、本企画にあたり、多大なご支援を賜ったご遺族の皆さま、関係各位に厚くお礼申し上げます。

主 催: 大阪府立中央図書館 国際児童文学館
京都国際マンガミュージアム/京都精華大学国際マンガ研究センター

協 力: 酒井隆道・中野晴行・渡辺泰(敬称略)

酒井七馬について【1905(明治38)年-1969(昭和44)年】

マンガ家、アニメーター、街頭紙芝居作家。大阪市南区(現中央区)大宝寺町西之丁生まれ。本名・酒井弥之助。紙芝居でのペンネームは左久良(さくら)五郎。その他、伊坂駒七、鷺里ましろ、多々良凡など。旧制中学中退。大正時代後半、『大阪パック』を編集していた小寺鳩甫(きゅうほ)に師事し、風刺漫画家として世に出た後、揺籃期のアニメーション映画界で活躍。1947(昭和22)年、大阪で若き手塚治虫との合作による赤本マンガ『新宝島』を出版。ストーリーは世界名作の寄せ集めだったものの、のちに映像的と評される描写の斬新さに当時の子どもたちは夢中になり、藤子不二雄や石ノ森章太郎をはじめ、後に日本のマンガ界をリードすることになるマンガ家たちに多大な影響を与えました。出版界の中心が東京にあっても生涯大阪にてマンガと紙芝居の世界で長く活躍。在阪マンガ家の組織作りや後進を育てることに熱心で、『ハローマンガ』『まんがマン』『ジュンマンガ』などマンガ雑誌を創刊し足跡を残しましたが、長らく晩年の生活や死には不明な点も多かったことから、伝説のマンガ家と言われました。

 酒井七馬肖像

酒井七馬肖像

大阪の子ども向け赤本文化 酒井七馬を育んだもの<戦前> 大阪の児童文化的風土1

江戸中期以降、「草双紙」と呼ばれる大衆的な絵入り小説本が流行し、その一つである「赤本」(表紙が赤い小型本)が概して子ども向け絵本として流行するようになります。さらに明治以降になると、印刷技術の革新や出版・流通網の整備を経て、より多くの安価な絵本、または双六、かるたなどの紙製印刷玩具が流通するようになり、これらも「赤本」と呼ばれて出回り、専門に扱う出版・取次業者などが現れるようになりました。
大阪では、明治初年に創業した榎本法令館(現・神霊館榎本書店)が有名です。大正期には在阪業者の最大手となり、駄菓子・玩具・文具など、書籍以外のさまざまな販路を用い、昔話をはじめ祝いもの、合戦もの、知識ものなど、多彩な題材の赤本を広く販売しました。
名作の焼き直しや、人気を博したものを模倣して作りかえる手法にも長けていて、なかでも「正チヤンもの」(『豆本正チヤン文庫』など)はオリジナルを真似たユニークなものです。
明治30年代、書店の多くは心斎橋筋に集まっていましたが、大正期には多くの赤本業者が四散し、代表的なものでは松屋町の富士屋書店をはじめ、東光堂、三春書房、田中元文堂などがあります。また、岡本ノート(昭和出版、現・ひかりのくに)のように、現在も引き続き絵雑誌を刊行しているところもあります。

赤本各種

赤本各種

中央の出版文化の取り入れ 酒井七馬を育んだもの<戦前> 大阪の児童文化的風土2

大阪の児童出版文化の特徴の一つに、中央の出版物を意識し、うまく取り込んでいることがあります。
たとえば、東京の出版社である博文館から刊行され、版を重ねた巌谷小波編「日本お伽噺」(1896=明治29年~)は、日本の代表的な昔話・お伽噺・神話・伝説など、歴史的説話を小波が自由に再編した全24冊のシリーズですが、人気を博したため多くの類書が出版されました。大阪では、福田琴月編で出た「日本お伽噺」(井上一書堂)があり、内容・巻構成・装幀ともに非常に似通っています。
また、大正期になると、同じく博文館から大衆的な児童雑誌『少年少女譚海』(1920=大正9年)が創刊されます。すると、1922(大正11)年には大阪で『少年少女楽園』(昭文館)が創刊され、B6判という特徴的な判型、表紙のデザインはもちろん、雑誌には重要な柱である投稿欄が極めて少なくしたことや、『譚海』の目玉であった「一千名大懸賞」まで取り入れています。
同様に、大日本雄弁会講談社から刊行された『講談社の絵本』は、豪華な装幀、一流画家による挿画、精緻な印刷が特徴的で、近代日本の絵本史に残るものですが、戦後復刊されたシリーズを含めて販売7000万部を記録したと言われています。同書を意識したと思われるものに、大阪では巧人社出版の『巧人社の絵本』、大日本愛国絵本会の『愛国絵本』が挙げられます。
商魂たくましいともいえる大阪ならではの模倣の文化が、児童出版文化の一面にも存在していたといえます。

 大阪発の児童出版文化 酒井七馬を育んだもの<戦前> 大阪の児童文化的風土3

模倣の文化がある一方で、大阪は独自の優れた児童出版文化を発信してきました。 それらはいずれも先駆的な試みであり、歴史に確かな足跡を残すものです。
その一つが「立川文庫」です。江戸話芸の講談を速記した小型本で、1911(明治44)年に大阪の立川文明堂から約200篇が出版されました。『猿飛佐助』や『霧隠才蔵』などの忍術ものが熱狂的な人気を博し、大正期には版を重ねて読み継がれました。この「文庫」の成功は、類似本としての「○○文庫」を全国に多数誕生させました。大阪のものでは榎本書店の「天狗文庫」、岡本偉業館の「史談文庫」などが有名です。大阪発の一つの子ども向け出版文化が、日本を席巻していったのです。
一方、絵雑誌にも大阪で先駆的な試みがありました。明治末年から大正・昭和にかけて、彩色された幼年絵雑誌が登場するようになります。武井武雄・初山滋の『コドモノクニ』や、村山知義の『子供之友』がよく知られていますが、その嚆矢となるのが大阪で創刊された『お伽絵解こども』(美育社)です。明治末期、まだ珍しかった洋装姿の子どもを描き、諸外国の童話なども多く掲載するモダンな誌面作りを行いました。編集は浮世絵画家・筒井年峯に学んだ辻村秋峯。朝日新聞記者でもあった辻村は、時代に鋭敏なジャーナリストとしての資質と、画家としての力量を併せ持つ人でした。彼はのちに『コドモアサヒ』(大阪朝日新聞社)の編集をはじめ、大阪の児童文化活動に重要な役割を担います。そして、この辻村の弟子に小寺鳩甫がいることも見逃せません。
大正から昭和にかけて、在阪の新聞各紙やラジオなどのメディアがさまざまに児童文化に焦点をあて、その担当者たちが組織の垣根を越えて結集し、エネルギッシュに活動していくのですが、こうした動きが大阪の児童文化を牽引する原動力になっていきます。
七馬の生きた時代、その周辺にはこうした児童文化的土壌・風土があり、これらがマンガ家・七馬の誕生に有形無形の影響を持つことになったと思われます。

『お伽絵解こども』2巻1号表紙

『お伽絵解こども』2巻1号表紙
児童美育会 1905.4

大阪が生んだ日本のマンガ文化と酒井七馬

日本のマンガ史上、大阪から多くのマンガ文化が発信されてきました。
まず、1901(明治34)年、宮武外骨が大阪で創刊した『滑稽新聞』の大ヒットが漫画雑誌創刊ブームを生みます。外骨は1907(明治40)年、子ども向けに風刺やとんちを効かせた奇抜な絵が満載の絵雑誌『教育画報ハート』も大阪で創刊しています。1906(明治39)年には漫画雑誌『大阪パック』が創刊され、洋画家の赤松麟作や漫画家の小寺鳩甫、藤原せいけん、平井房人らが編集長を歴任しました。この雑誌は1950(昭和25)年まで続き、酒井七馬は1923(大正12)年頃から関わって、鳩甫の弟子になりました。
戦後間もない生活が厳しい時代、マンガは人々の身近な娯楽となります。大阪では1946(昭和21)年、『大阪新聞』で連載された4コママンガ「ヤネウラ3ちゃん」(南部正太郎/作・画)が、痛烈なギャグとペーソスが詰まったマンガとして人気を博しました。また同年『少国民新聞(大阪版)』(大阪毎日新聞社)で4コママンガ「マアちゃんの日記帳」連載でデビューを果たした手塚治虫は、1947(昭和22)年、七馬との共作『新宝島』の大ヒットを皮切りに『ロストワールド』(不二書房)、『一千年后の世界』(東光堂)など、奇想天外なストーリーマンガを大阪の出版社から次々発表、大阪は空前の赤本マンガブームに沸きました。やがて1953(昭和28)年、大阪の出版社・八興(のち光伸書房)が貸本屋向けマンガ本「日の丸文庫」を刊行、貸本マンガブームの先駆けとなり、青年たちへ読者層を広げ、1959(昭和34)年、辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあき等が大阪で「劇画工房」を結成、リアルな社会を描く新しいマンガのジャンル・劇画が誕生します。
このように、七馬の『新宝島』から影響を受け、貸本マンガで育った大阪のマンガ家たちが、現代のマンガにつながる流れを生み出したのでした。

『大阪パック』18年1号表紙

『大阪パック』18年1号表紙
大阪パック社 1923.1

アニメーターとしての仕事

酒井七馬の初期の重要な仕事の一つに、アニメーションがあることは意外に知られていません。
1934(昭和9)年、七馬は戦前を代表する映画俳優・大河内伝次郎の紹介で、日活京都撮影所漫画部に入社します。同年5月23日付『京都日出新聞』には、「大阪在住の酒井七馬が俳優・大河内伝次郎の紹介で入社した」との記事が掲載されており、この頃既に七馬には画家としてある程度の知名度があったことがうかがえます。
入社した七馬は、トーキー漫画映画第一作の「島の娘」を皮切りに、「忍術火の玉小僧」〈江戸の巻〉〈紙芝居の巻〉〈海賊退治〉〈山賊退治〉と制作し、それらを経て自身初の原作・監督・作画を担当した「海の小勇士」に取り組みます。七馬は、初めて自らが関わったアニメを見て、絵が動いたことに大きな驚きを感じたといいます。
「海の小勇士」は、1942(昭和17)年12月11日に公開された8分の歴史ものです。漁師の太郎吉は、沖合の千石船が海賊に襲われ火に包まれているのを発見、代官所へ注進し、単身海賊船へ忍び込みますが捕えられてしまいます。その時、甲冑に身をかためた勇士たちが乗り込んで来て助けられ、海賊船をやっつけた太郎吉らは軍艦マーチで帰って来るというストーリーです。
カット割りや動画、トレース、彩色など一連の工程をすべて行い、自宅にもライトテーブルを自作するなど、このときアニメーションの基本を学んだ体験が、のちの『新宝島』をはじめとする七馬のマンガ表現にもつながっていくものと考えられています。
戦後も、1966(昭和41)年から七馬は「オバケのQ太郎」「ロボタン」などのアニメーション制作に関わっています。動くマンガ(アニメーション)は、七馬の仕事の重要な柱といえるでしょう。

海の小勇士画像 ロボタン
「海の小勇士」1942.12公開
(東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵)

TVアニメ「ロボタン」 (C)大広
(『TVアニメ25年史』徳間書店 1988.12から)

戦前の酒井七馬

1923(大正12)年、漫画作品を持ち込んだのが縁で、七馬は、漫画雑誌『大阪パック』の編集部に出入りするようになります。そこでは、編集も行い、漫画も描いていました。同誌で活躍していた小寺鳩甫に師事し、漫画と日本画を学んだのは、先に述べた通りです。この雑誌が、七馬の漫画家生活の出発点となります。
1929(昭和4)年には『大阪新聞』の嘱託となり、漫画記者として働くようになりました。
ここで紹介しているのは、『京都新聞』の前身のひとつである『京都日出新聞』に連載された「日曜日出マンガ」です。世相を諷刺する大人向け1コマ漫画と、子ども向けのコマ漫画(ストーリー漫画)を、絵柄を変えて、両方描いている点が注目されます。
カットなどの仕事もしながら、1934(昭和9)年には作画担当として日活京都漫画部に入社、アニメーションの世界でも才能を開花させていきます。

日曜日出マンガ
 「日曜日出マンガ」
『京都日出新聞』1933.1.22「日曜日出」(6)

戦時中の酒井七馬

国民が総動員された先の戦争においては、各人の才能までもが“供出”の対象となりました。漫画家たちも例外ではありません。それまであった全国の漫画家グループは、報国を目的とした組織に再編されていきます。そのひとつで、北沢楽天が会長を務める「日本漫画奉公会」(1942=昭和17年結成)の関西支部長となった七馬は、仲間の漫画家たちとともに、「似顔絵漫画激励訪問」として、大阪や神戸の軍需工場などをまわり、専用のはがきに従業員の似顔絵を描くなどしていました。当時、戦地の兵隊たちを慰め、士気を上げることを目的とした「慰問袋」というものが戦場に送られていました。そこには、日用品のほか、漫画本のような娯楽商品も入っていました。こうした慰問袋用の漫画単行本などを描いて、ヒットさせていたのもこの頃です。
同じ頃出会った漫画家・江上喜行(ペンネーム・大坂ときを)が入営した際、七馬がときをに送った「慰問はがき」が残っていますが、その友情は戦後まで続きます。

軍事慰問似顔絵
軍事慰問似顔絵

終戦、『新宝島』の誕生前夜

1945(昭和20)年8月、敗戦。多くの人たちがそうであるように、漫画家たちも終戦直後は仕事にあぶれますが、七馬は進駐軍のキャンプなどでGIたちの似顔絵を描いて忙しくしていました。この頃出会ったアメリカンコミックスはのちの画風に影響を与えます。
大人を相手にした絵を描きながら、絵柄を変えて子どもマンガも描いてしまうのが、酒井七馬という作家の器用さです。戦前~戦後をまたいで、子ども向けの七馬作品は、教育関係の出版を手掛ける大阪の育英出版やその兄弟会社である児訓社からしばしば出されていましたが、この育英出版こそ、のちに手塚治虫との合作『新宝島』を刊行することになる出版社です。
1946(昭和21)年、戦前から付き合いのある漫画家・大坂ときをらと、新雑誌『まんがマン』を創刊。「関西マンガマンクラブ」に入会した会員向け雑誌という形を採って発行されました。創刊号のピカソ風の表紙画を描いたのも七馬です。この号の目次には、『大阪新聞』で4コママンガ「ヤネウラ3ちゃん」を始めたばかりの気鋭の新人・南部正太郎の他、投稿作家として、のちにかっぱ絵で有名になる小島功らの名前が見えます。
この関西マンガマンクラブの会員番号2番こそ、手塚治虫です。こうして、七馬と手塚は出会い、戦後マンガのターニングポイントとなる傑作『新宝島』誕生の前夜を迎えるのでした。

『まんがマン』創刊号表紙
『まんがマン』創刊号表紙
関西マンガマンクラブ 1946

『新宝島』の誕生 手塚治虫との邂逅

1946(昭和21)年7月8日、まだ阪大の医学生だった手塚治虫は大坂ときをに伴われ、関西マンガマンクラブの会員として玉出の酒井七馬のもとを訪れました。漫画映画への関心などを同じくする手塚を七馬は気に入り、児訓社からの依頼で準備していた新雑誌『ハローマンガ』の執筆者に誘います。
ディズニーを思わせる、手塚の躍動感ある絵に惚れ込んだ七馬は、もともとは自分ひとりで執筆するつもりだった長編マンガ単行本の仕事を合作というかたちで手塚へ持ちかけました。七馬が原作・構成を、手塚が作画を担当し、1947(昭和22)年1月に育英出版から出されたこの作品の名は『新宝島』。スチーブンソンの小説『宝島』をもとに宝島の地図を手に入れた少年を主人公としつつ、ロビンソン・クルーソーさながらの漂流場面やターザンのような密林の王者の登場なども盛り込まれた冒険物語です。七馬の手によるモダンな表紙も目をひく本作は、大阪赤本マンガ最大のヒットとなりました。また、その冒頭で描かれた疾走するオープンカーの躍動感は多くの読者に衝撃を与え、その後のマンガ史を大きく動かしていきます。
絵の描き直しも含め、経験豊かな七馬とのやりとりを重ね進められた『新宝島』の執筆は、若き手塚にとってもマンガ家として一皮むけるきっかけとなりました。七馬は手塚との合作第2弾『怪ロボット』の企画を進めますが、思わぬ出来事が二人のコンビ関係に終止符を打ちます。『新宝島』奥付の著者名が七馬の名のみであることに怒った手塚は、七馬との絶縁を宣言。結局『怪ロボット』は七馬ひとりの筆によって刊行され、のちに二人の関係は修復されたものの、七馬・手塚コンビによる作品は『新宝島』一作のみに終わったのでした。

『新宝島:冒険漫画物語(完全復刻版)』表紙
 『新宝島:冒険漫画物語(完全復刻版)』
小学館クリエイティブ 2009.3

八面六臂の活躍 イラストから絵物語まで

『まんがマン』や『ハローマンガ』以外の雑誌でも、酒井七馬は精力的に活動していました。『ハローマンガ』と同じ1946(昭和21)年に創刊された『漫画民主ニッポン』は七馬が編集人を務めつつ、複数の名義を使い分けながらほぼ一人で執筆しています。また1947(昭和22)年に大坂ときをが大阪のマンガ家たちを集めて刊行した『漫画家』の創刊号では、横井福次郎による表紙と並んで裏表紙を七馬の作品が飾りました。赤本マンガのブームがピークを迎えた1947年から1948(昭和23)年にかけて、七馬はいくつも赤本マンガを描きおろす一方で、挿絵やイラストの仕事も数多く手がけていました。この方面での七馬の仕事は晩年まで断続的に続きますが、なかでも異彩を放つのが1948年に描いた『真珠』の「ぐろてすく・まんが」です。タッチをがらりと変えて猟奇趣味の世界を扱ったその作品は江戸川乱歩にも評価されました。七馬はさらに『読み物と漫画』でもグロテスクな怪奇作品を発表したものの、1949(昭和24)年を最後にこの路線はパタリとやめてしまいました。
1950(昭和25)年前後から、七馬は紙芝居や絵物語に活動の軸足を移していきます。1949年に創刊された『冒険紙芝居』での絵物語執筆を経て、1954(昭和29)年からは『大阪日日新聞』で紙芝居時代の同名作品をリメイクした「鞍馬小天狗」、次いで「ボクは弁慶」というふたつの時代もの絵物語を連載。いずれの作品もペンによって細部まで描かれ、とりわけ1956(昭和31)年4月から1958(昭和33)年12月までの全932回に及び七馬の最長編ともなった「ボクは弁慶」の後半では、劇画を思わせるリアルなタッチも見られます。また、晩年の1966(昭和41)年に発表され、七馬最後の連載作品となった大人向け絵物語「歴史は女でつくられる」も、この『大阪日日新聞』紙上で掲載されたものでした。

「ボクは弁慶」727話
「ボクは弁慶」727話
『大阪日日新聞』1958.5.7(7)2

街頭紙芝居作家としての仕事

1950(昭和25)年頃から、酒井七馬は左久良五郎のペンネームで、大阪の紙芝居絵元・三邑会(さんゆうかい)で街頭紙芝居を描き始めました。『少年忍者』『女忍者』などの忍者シリーズ、『悪魔は夜きたる』『悪魔のささやき』『悪魔の使者』などの悪魔シリーズ、『透明人間』『宇宙少年』『鉄人チビッ子』『原子怪物ガニラ』『恐怖のフランケン』などの科学・怪物ものと、その作風は多岐に渡り、多くの傑作を残しました。なかでも、1962(昭和37)年制作の西部劇をベースに描かれた『少年ローン・レンジャー』(全28巻)は、動きのあるダイナミックな絵と、映画のモンタージュを思わせる巧みな構成で、最高傑作のひとつとされています。また1953(昭和28)年にヒットした、幕末の京都で黒頭巾の少年「コテちゃん」が活躍する『鞍馬小天狗』は翌年から1956(昭和31)年まで『大阪日日新聞』に漫画物語としても連載され、代表作となりました。
三邑会の紙芝居は、国際児童文学館と塩崎おとぎ紙芝居博物館に大半が収蔵されています。

『鞍馬小天狗』(三邑会制作)第一巻表紙
『鞍馬小天狗』(三邑会制作)第一巻表紙

関西マンガ界の伝説へ

 若いマンガ家たちやマンガ家志望者との交流を好み、面倒見のよかった酒井七馬の周辺には、多くの関西マンガ界の人々が集まってきました。1946(昭和21)年の『まんがマン』発行に合わせて作られた関西マンガマンクラブの会合には、大坂ときを・手塚治虫のほかにも、のちにマンガ家となった田中正雄や東浦美津雄といった面々が参加しています。また、1948(昭和23)年頃には、大阪の児童マンガ界では重鎮として七馬と双璧だった大野きよしとともに関西児童漫画協会を立ち上げ、デッサン勉強会や情報交換を行っていました。参加者には、手塚や東浦のほかに、赤本マンガだけでなく絵本でも活躍した西田静二や、峠哲平といったマンガ家たちの顔を見ることができます。
晩年にも1964(昭和39)年に設立された日本漫画家協会の大阪支部の行事へ積極的に参加するほか、1968(昭和43)年には西上ハルオと「ジュンマンガ・サークル」を立ち上げ、劇画世代のマンガ青年たちと交流を持ちました。しかし、劇画の時代を迎え大きく変わり始めていた1960年代のマンガ界において七馬の実際の仕事を知る若手はもはや少なく、1969(昭和44)年の死とともに、酒井七馬の名は戦後ストーリーマンガ黎明期における「伝説」のひとつとして記憶されていくこととなるのです。

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