大阪府立図書館

English 中文 한국어 やさしいにほんご
メニューボタン
背景色:
文字サイズ:

大阪府立中央図書館 国際児童文学館 企画展示「国際児童文学館所蔵資料にみる絵本史にかがやく名著たち」【解説】

大阪府立図書館 > 来館案内・施設案内 > 国際児童文学館(中央図書館内) > 国際児童文学館について > 大阪府立中央図書館 国際児童文学館 イベント情報(展示・講演会など) > 国際児童文学館 過去の資料展示 > 大阪府立中央図書館 国際児童文学館 企画展示「国際児童文学館所蔵資料にみる 絵本史にかがやく名著たち」 > 大阪府立中央図書館 国際児童文学館 企画展示「国際児童文学館所蔵資料にみる絵本史にかがやく名著たち」【解説】

更新日:2024年3月24日

はじめに

日本の子どもの絵本のはじまりは近世にまでさかのぼることができます。近代に入ると、図版の印刷が木版から銅版や石版に変わるなど、技術の進歩が絵本を豊かにして、子どもたちに届けられるようになりました。

本展示では、明治期の「ちりめん本」や、『日本昔噺』など巖谷小波と画家たちの仕事からはじめて、大正期の絵本・絵雑誌、戦時下の絵本、そして、戦後間もない時期の絵本までをご紹介します。現代日本の絵本は、多様なテーマと表現で充実したものになっていますが、その源流の一端をたどります。

展示資料は、すべて当館所蔵の絵本史にかがやく名著たちです。独自な世界をひらいていった画家や作家、編集者の絵本づくりの工夫を当時の子どもたちの気もちになって楽しんでいただければ幸いです。

※解説文中に出てくる【】内の数字は、資料展示リストの通し番号です。

1. 明治期の絵本

明治期の絵本は、江戸時代の草双紙などの影響と、西洋の絵物語の影響を受けた時代だと言えます。絵と言葉によって一つの世界を作り、ページをめくることで物語が展開するという意味での「絵本」の萌芽を見ることができる時代とも言えます。

明治維新と同じ年に出版された福沢諭吉『訓蒙 窮理図解』【1】は、物理や化学を図解して説明した小学生程度の子ども向けの教科書的な本で、「図解」されていた点が、のちの科学絵本の系譜につながります。

その後、ちりめん本、巖谷小波(いわや さざなみ)が編集企画した「少年文学叢書」「幼年文学叢書」「お伽画帖」【7,8】(すべて博文館)なども出版され、小波は現代絵本としても通用する芸術性の高い「日本一ノ画噺」シリーズ【23~57】を作るにいたります。

一方で、昔話を題材にした草双紙は明治時代前期には大いに発行されていました。明治後期には、それらの流れを汲み、大衆性の強い『絵本日清牙山大戦争』【3】などの戦記物や、『電車づくし』【5】などの「づくし絵本」、『歴史教育絵本 曽我兄弟』【6】などの歴史物の絵本が発行されました。

加えて漫画と絵本の中間とも言える『ぽんち御伽絵噺 明治桃太郎』【4】のような滑稽さを売りにした「ポンチ絵本」も出版されました。

2. ちりめん本

「ちりめん本(縮緬本)」とは、和紙に江戸期の草双紙と同様に木版印刷という手仕事による部分と活版印刷による欧文の本文印字を組み合わせて和綴じされた本で、印刷をしたあと、和紙を縮めて、絹織物の縮緬のような手ざわりに作られています。この手法は江戸時代からあったようですが、「ちりめん本」の考案者は長谷川武次郎(1853~1936)で、彼が代表する弘文社で製作されました。

本展示では、ちりめん本の代表的なシリーズである「Japanese Fairy Tale」(「欧文日本昔噺」)シリーズ【10~16】から、7冊を紹介しています。1892(明治25)年までに全20冊を刊行しました。

代表的な訳者であるダビッド・タムソン(David Thompson, 1835-1915)は、宣教師として来日しており、『舌切雀』『猿蟹合戦』『花咲爺』は、滝沢馬琴『燕石雑志』から英訳し、『鼠嫁入』は、草双紙の『鼠のよめ入り』と『千秋楽鼠之娵入』を参照して英訳しています。

また、ほかの訳者には『古事記』を英訳したり、帝国大学(後の東京大学)で教鞭をとったりしたバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850-1935)もいます。

絵は狩野派の画家小林永濯(1843-1890)で、英語版のみでなく、ドイツ語版やフランス語版なども作られ、外国のおみやげや輸出品として人気を博しました。

『八ツ山羊』【17】も長谷川による出版で、「オオカミと七ひきの子ヤギ」と似たストーリーで、ちりめん状に加工していない平紙本ですが、2か所にしかけがあります。

3. 巖谷小波と画家たち

近代の子どもの本の開拓者であった巖谷小波(1870-1933)は、子どものとき、ドイツにいる兄からオットー(Franz Otto)のメルヘン集を送ってもらい、大切にしていました。

1887(明治20)年に尾崎紅葉(1868-1903)らが設立した硯友社の一員となり、1891(明治24)年、のちに明治を代表する出版社となる博文館で、「少年文学叢書」を企画し、第一篇に『こがね丸』【18】を書いて大好評を得ました。その挿絵は硯友社とかかわりがあった武内桂舟(1861-1942)で、小波とは多くの作品でコンビを組んでいます。『こがね丸』は、「只管少年の読み易からんを願う」(凡例)とあるように、子どもを楽しませるためのシリーズということができ、児童文学の進展に大きな役割を果たしました。続いて博文館から『桃太郎』【19】を第一篇とする「日本昔噺」全24巻(1894-1896)を発行しました。選ばれた作品などに、ちりめん本の影響が見られます。

小波は、1895(明治28)年に博文館に入社し、雑誌『少年世界』(-1933)を創刊します。また、叢書「日本お伽噺」【20】24巻(1896-1899)、「世界お伽噺」【21】100巻(1899-1908)などを次々に刊行していきます。挿絵に関して小波は、近代の他の作家同様、画家に指示を出していました。俳画も多く残しており、中西屋書店で「日本一ノ画噺」【23~57】や「お伽手工画噺」【22】などのシリーズを出すなど、明治・大正期の絵本に大きく影響を与えた人物だといえます。

4. 「日本一画噺

瀬田貞二(1916-1979)によって「ひとつの事件とでもいえる絵本の出現」と評された手の平サイズの絵本シリーズで、1911(明治44)年から1915(大正4)年までに全35冊発行されました。国際児童文学館では、国内で唯一、専用書棚つきで所蔵しています。そのうち、6冊だけをシリーズにしたものは、麦わら細工の美しい箱に入れられていました。内容は、『モモタラウ』や『サルカニカツセン』などの昔話、『タメトモ』『ソガキヤウダイ』などの英雄豪傑譚、また『アヒルトニワトリ』や『ドウブツエン』など、日常生活に材をとった物語まで幅広い内容です。

文は、明治期を代表する子どもの本の作家である巖谷小波です。小波は、このシリーズより前に博文館で雑誌『幼年画報』【67,68】や「幼年画報」の半分の大きさの絵本シリーズ「お伽画帖」【7,8】全25冊を出版しており、それらの影響を見ることができます。「日本一ノ画噺」は「お伽画帖」よりもっと短い、七五調のリズムのある文が掲載されています。

  絵は杉浦非水(すぎうら ひすい 1876-1965)、岡野栄(おかの さかえ 1880-1942)、小林鍾吉(こばやし しょうきち 1877-1946)が描いており、すべて単色のバックに黒のシルエットが浮かぶ斬新かつモダンなデザインです。発行の中西屋書店は、書店として出発した創業から丸善とかかわりがあり、1920(大正9)年に丸善に吸収されました。

5. しかけ絵本

『江戸仕掛本考』によると、江戸時代にも、上に開く、観音開き、半分だけページがめくられる、一部分に貼り込みがあるなどのしかけのある艶本があり、子ども向けのおもちゃ絵と双方向に影響しあっていたと書かれています。

明治期以降の絵本(『八ツ山羊』【17】など)や、大正期以降の『コドモノクニ』【71,72】(東京社、1922(大正11)年創刊)『幼年画報』【67,68】(博文館、1906(明治39)年創刊)、『幼年フレンド』(幼年フレンド社、1916(大正5)年創刊(推定))、『日本幼年』(東京社、1915(大正4)年)、『新幼年』(新幼年社、1916(大正5)年)、『飛行幼年』(日本飛行研究会、1916(大正5)年)などの絵雑誌にもその影響が見られます。絵雑誌とは別に、露天商や玩具商などに販路があった「赤本業者」からも発行されていました。本展示の『坊チヤン嬢チヤン : ヒラケバスグカハルエホン』【60】は、赤本業者による絵本で、半分に切れているページをめくることで、情景が変化するしかけが用いられています。

おもちゃ的な要素としては、「お伽手工画噺」【22】のほか、森永チョコレート宣伝用に作られた『不思議なチヨコレート太郎』【58】などもあります。

一方で、西洋の影響を受けたポップアップのしかけとしては、本展示『お伽の森 : 動く繪本』【59】が挙げられます。これは、英国のS・Louis Giraud(1879-1950)の多くのすばらしいポップアップしかけ絵本の一冊である『デイリー・エクスプレス子ども年鑑』The Daily Express Children’s Annual第2巻 1930の7場面のしかけを見て作られたと考えられます。雑誌『子供之友』【69,70】にも、ポップアップのしかけが見られます。

6. 明治・大正の絵雑誌

「私は明治三十八、九年ごろの子どもたちが、にわかににぎやかになった印刷物に目を見張ったことだろうと想像しています。」と述べたのは瀬田貞二です。20世紀のはじめ、日露戦争後の時代です。印刷技術は日清・日露の戦争のようすがさかんに報道されるなかで発達し、その技術は、子どもの本も変革していきます。

カラー印刷の絵雑誌のはじまりは、大阪の児童美育会発行の『お伽絵解こども』【61,62】(1904(明治37)年創刊)です。西洋の昔話を挿絵入りで紹介するなどのモダンな誌面の半分が三色刷でした。

やはり多色刷の『少年智識画報』【65,66】『少女智識画報』【63,64】(近事画報社、1905(明治38)年創刊)や『幼年画報』【67,68】(博文館、1906(明治39)年創刊)の発行もつづきます。『智識画報』は、視覚にうったえる知識読物雑誌として新鮮でした。『幼年画報』は、巖谷小波の御伽噺を色彩あふれる挿絵とともに届けました。

大正期に入ると、教育的な色合いの強い『子供之友』【69,70】(婦人之友社、1914(大正3)年創刊、羽仁もと子編集)や、より芸術性の高い『コドモノクニ』【71,72】(東京社、1922(大正11)年創刊)、『コドモアサヒ』【73】(朝日新聞社(大阪)、1923(大正12)年創刊)などの幼年絵雑誌が、倉橋惣三ら幼児教育の専門家の協力も得て、都市の市民層を中心とする家庭に持ち込まれます。これらの雑誌は、多くの童画家たちに活躍の場をあたえましたが、子どもたちが描いた「自由画」も数多く掲載しました。

7. 大正の童話雑誌

「『赤い鳥』は(中略)子供の純性を保全開発するために、現代第一流の真摯なる努力を集め、兼て、若き子供のための創作家の出現を迎うる、一大区画的運動の先駆である。」――これは、1918(大正7)年に創刊された童話雑誌『赤い鳥』【74】(赤い鳥社)の創刊の辞「『赤い鳥』の標榜語(モットー)」の一節です。雑誌を主宰した鈴木三重吉は、文壇作家や童話作家、童謡詩人だけではなく、画家たちも巻き込んで、『赤い鳥』を刊行していきます。表紙絵や挿絵を担った中心は、若手の洋画家、清水良雄(しみず よしお 1891-1954)でした。鈴木淳(すずき じゅん 1892-1958)、深沢省三(ふかざわ しょうぞう 1899-1992)らも活躍します。

『赤い鳥』が巻き起こした児童文化の新しい風は、その後、『金の船』【76】(キンノツノ社→金の船社→金の星社、1919(大正8)年創刊、のち『金の星』と改題)、『おとぎの世界』【75】(文光堂、1919(大正8)年創刊)、『童話』【77】(コドモ社、1920(大正9)年創刊)などの雑誌をあいついで生み出すことになります。『金の船』『金の星』は岡本帰一(おかもと きいち 1888-1930)、『おとぎの世界』は初山滋(はつやま しげる 1897-1973)、『童話』は川上四郎(かわかみ しろう 1889-1983)というふうに、個性的な画家たちが特定の雑誌とむすびついて表紙絵や挿絵を制作します。

8. 大正期の画家

明治期の子どものための絵の描き手が日本画の修業をしたのに対して、大正期の画家たちの多くは洋画を学んだ人たちで、より高い芸術性に手をのばそうとしていました。やがて「童画」と呼ばれることになる子どものための新しい絵のありかたが成立するきっかけをつくったのは、1918(大正7)年創刊の『赤い鳥』【74】をはじめとする童話雑誌です。

「童画」ということばを最初に使ったのは、1924(大正13)年の武井武雄(たけい たけお 1894-1983)でした。それまでは、「童話挿画」や「童謡画」の語で呼ばれていたのですが、武井は、関東大震災後の東京銀座・資生堂で「武井武雄童画展」という個展をひらいたのです。

 童話雑誌や絵雑誌だけでなく、楠山正雄編集の『画とお話の本』【82~84,118】(冨山房)といったシリーズも、画家たちに重要な舞台を提供しました。『画とお話の本』は、楠山が文を書き、武井武雄、河目悌二(かわめ ていじ 1889-1958)、初山滋、岡本帰一ら6人の画家が挿絵の筆をきそいました。

 「童画」の先がけは、『お伽草紙』『どんたく絵本』などの竹久夢二(たけひさ ゆめじ 1884-1934)の仕事でしょう。

「童画」の成立は、子どものための絵の様式が生まれたことを意味しますが、画家たちは、子どものかわいらしさを強調するきらいがありました。子どもを純粋で無垢なものとして理想化する大正期の童心主義は、絵の世界にも大きくひびいていたのです。

9.「正チヤンの冒険」

江戸時代の流れを汲んで、明治期の少年少女雑誌には、コマになった絵がストーリーを展開したり、線画に読者が何かを加えておもしろい絵にする「ポンチ」コーナーがあったりしました。また、書名に「ポンチ」が入った滑稽さを楽しむ絵本も明治後期から多く出版されました。

そのような中から絵物語や子ども漫画の祖とも言える岡本一平、山田みのる、宮尾しげをなどが活躍し、そのあと、「童画ふうのタッチに、海外の続き漫画の形式をミックスした」「正チヤンの冒険」【85~87】が登場しました。

「正チヤンの冒険」は、1923(大正12)年に雑誌『アサヒグラフ』で連載が始まり、同年から1926(大正15)年まで『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載され、その後、一~七の巻が単行本として出版されました。「洋服を着てスキー帽のような帽子を被った正チヤンという少年が、かわいらしいリスをおともに従え、夢のなかや空想の国を旅し、」「知恵と勇気で困っている人々を救済する」という内容で、「正チャン帽」の由来の作品です。ここにはキャラクターである正チヤンの人気の高さがうかがえます。作者は、織田小星(1889-1967)と東風人(=樺島勝一、1888-1965)の合作で、織田が案を担当し、東風人が絵をつけました。樺島勝一は、のちに雑誌『少年倶楽部』などに、船の細密画や、軍事冒険小説の挿絵を描き人気を博しました。

10. 昭和(戦前・戦中)の童画家

1927(昭和2)年、日本童画家協会が結成されました。結成メンバーは、岡本帰一、川上四郎、清水良雄、武井武雄、初山滋、深沢省三、村山知義(むらやま ともよし 1901-1977)の7人です。1928(昭和3)年に刊行がはじまった単行本絵本の叢書(シリーズ)『コドモヱホンブンコ』【89,90】(誠文堂)の裏表紙に掲載された「発刊の言葉」には、この童画家協会の協力があることが記されています。叢書の絵本の内容は、昔話、翻訳、創作にわたっていました。

全24冊のシリーズ『新日本幼年文庫』【92~94】(帝国教育会出版部)は、太平洋戦争がはじまる1941(昭和16)年から44(昭和19)年にかけて出版されたものです。詩人の百田宗治が全体を企画編集し、小山内龍(おさない りゅう 1904-1946)、脇田和(わきた かず 1908-2005)、赤松俊子(あかまつ としこ 1912-2000 のち丸木俊と名のる)ら、すぐれた画家たちが参加しています。赤松の『ヤシノミノタビ』【93】(丸山薫著)などは、戦後に定着することになる物語絵本(1冊で一つのストーリーを語る)のはじまりともいえるかもしれません。

『帝教の絵本』【95,96】は、『新日本幼年文庫』と同じく帝国教育会出版部の発行です。1942(昭和17)年から44(昭和19)年に刊行されました。戦時下の言論統制のなか、内務省の指示のもとにある出版社でありながら、これも画期的なシリーズでした。茂田井武(もたい たけし 1908-1956)などの童画家だけでなく、脇田和などの洋画家が何人も起用されて、大きな判の大きな画面に取り組んでいます。規制の多い時代においても、表現者の新しい創造が模索されていたことがわかります。

11. 昭和(戦前・戦中)の絵本・絵雑誌

昭和の戦前・戦中期は、現代の絵本の模索の時代ともいえます。

『キンダーブック』【97】(フレーベル館)は、1926(大正15)年に文部省が制定した「幼稚園令」に「観察」という保育項目がくわわったことをうけて、1927(昭和2)年に創刊された「観察絵本」です。動植物の観察や飼育、栽培などが行われるようになった保育現場に直接販売するかたちをとりました。

1936(昭和11)年、大日本雄弁会講談社が発刊した『講談社の絵本』【100】は、42(昭和17)年までに203冊を刊行しました。1冊で一つのテーマを構成します。戦争にかかわる美談も数多くふくまれますが、「子供が良くなる講談社の絵本」として、偉人伝、昔話、知識読物などの内容を色彩豊かに展開しました。伊藤幾久造(いとう きくぞう 1901-1985)や齋藤五百枝(さいとう いほえ 1881-1966)などの一流の画家を起用しています。

1937(昭和12)年には、『小学科学絵本』【101】(東京社)が刊行されはじめました。「子供に科学教育の大切なことは、誰でも知ってゐたが(中略)わかりやすく説明されたものはなかつた。」「尋常三年から読める」(広告文)テーマは、「汽車」「家」「石油」「砂糖」などなどです。日本ではじめての科学絵本のシリーズです。アメリカの絵本の影響も指摘されています。

1941(昭和16)年、小学校が国民学校と名前が変わり、小学生が少国民になりました。1943(昭和18)年から翌年にかけて6冊刊行された『少国民絵文庫』【103】(中央出版協会、巽聖歌編集)は、その少国民にむけて作られたものですが、この時期においても芸術性を保とうと考えられたものでした。

12. 昭和(戦後)の絵本

太平洋戦争後の1953(昭和28)年、石井桃子や光吉夏弥の企画・編集による『岩波の子どもの本』【106,107】の刊行がはじまります。シリーズには、『ちいさいおうち』や『おさるのジョージ』などがふくまれ、絵と文が一体となって物語世界を作ることができることを日本の読者に強く印象づけました。とはいえ、すべて同じ判型で縦書きであったため、原書のすばらしさがすべて伝えられたとはいえません。

この前には、新潮社の『世界の絵本』シリーズ全35冊(1949-53年)がありましたが、絵本の歴史を塗り替えるほどの力はありませんでした。

福音館書店は、『100まんびきのねこ』【110】などの海外の絵本を積極的に翻訳出版すると同時に月刊絵本『こどものとも』【108,109】(1956(昭和31)年創刊)を発行しながら、日本独自の絵本のありようを模索しました。それらの中から今も読まれつづけている『ぐりとぐら』をはじめ、多くの名作絵本が出版されました。

『ヒカリノクニ』【104,105】(昭和出版→ひかりのくに昭和出版→ひかりのくに株式会社)も、戦後間もない1946(昭和21)年に大阪で発行された絵雑誌です。

絵本は、見開きの絵がさまざまなことを語り、ページをめくっていくことによって展開する独自の子どもの本です。昭和から現代にいたる日本の絵本は、多様なテーマと表現の可能性をひらき、海外からも注目される分野になっています。

<参考文献>
​鳥越信編『はじめて学ぶ日本の絵本史』1~3 シリーズ・日本の文学史 ミネルヴァ書房 2001年12月~2002年7月
鳥越信『小さな絵本美術館』 ミネルヴァ書房 2005年6月
瀬田貞二『落穂ひろい』上下 福音館書店 1982年4月
上笙一郎『児童出版美術の散歩道』 理論社 1980年11月
瀬田貞二「近代日本の絵本」『複刻 絵本絵ばなし集 解説』瀬田貞二/著者代表 ほるぷ出版 1978年3月
石沢小枝子『ちりめん本のすべて 明治の欧文挿絵本』三弥井書店 2004年3月
三宅興子「絵本・絵雑誌の『仕掛け』についての一考察」、丸尾美保「絵雑誌コレクションの概要と意義」
『大正期の絵本・絵雑誌の研究-少年のコレクションを通して-』三宅興子、香曽我部秀幸/編
翰林書房 2009年11月
土居安子「遊びを演出するしかけ絵本-国際児童文学館出展のしかけ絵本を中心に-」
『ブラティスラヴァ世界絵本原画展-広がる絵本のかたち』美術館連絡協議会 2012年7月

解説執筆:一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団

「国際児童文学館所蔵資料にみる絵本史にかがやく名著たち」資料展示メインページへ

PAGE TOP